レファレンス・ブックが描く書物史  星野 龍 (会報133号 2012年8月)

レファレンス・ブックが描く書物史

星野 龍

◆辞書的時空
 ベストセラー小説『舟を編む』(三浦しをん著,光文社,2011年)では,辞書づくりという仕事が,どこか浮世離れした,悠久の時の中で営まれるさまが描かれる。
 しかしながら,話題騒然たる電子書籍において,実験的に先頭に立ってきたのは,そんな辞書を中心とするレファレンス・ブックである。例えば『電子出版学入門』では「電子出版の歴史」という章をCD-ROM版書籍の登場で始めているが,その第1号は『最新科学技術用語辞典』(三修社,1985年)であり,1987年という早い時期に国語辞典の代表的存在である『広辞苑』(岩波書店)や『模範六法』(三省堂)がCD-ROM化されている。
 「紙の辞書というのは,本来紙である必要はないものを紙しかなかったので,構造化をして紙の中に押し込んでいたわけです。それが電子化によって解き放たれて,検索をしたい,何かを調べたいという目的に合致した新しい商品になったといえると思います」(星野渉)という指摘もあるが,これは辞書に限らず,レファレンス・ブック全般に当てはまるであろう。
 その「構造化」とは,空間的(紙面の制約への対応)ばかりでなく,時間的にも考えられる。すなわち,小口のサム・インデックスで大まかに検索対象の位置に見当をつけ,柱のキャッチワードで頁を確定し,紙面を目で走査して検索対象にたどり着くといった,「引く」プロセスの時間性である。
 ゆえに,電子書籍は大容量化によって(紙からの)空間的解放をもたらし,検索対象にすぐに到達できるランダム・アクセスの便によって時間的解放をもたらす。レファレンス・ブックが電子化に対して適性がある理由はまずこの二点であろう。
 次に書物史の別な一断面を参照したい。

◆スクロールからコデックスへ
 書物の歴史には幾度かの転機があったが,スクロール(巻物,巻子本)からコデックス(冊子本)へという形態の移行もまた画期をなした。紀元2世紀ごろに出現したコデックスは,古代ローマ・地中海世界において,数世紀をかけて徐々にスクロールに取って代わった。要因として以下が考えられる。(1)コデックスによって書物はよりコンパクトになり,かつ容量が大きく増える。(2)巻いた状態から順次広げてゆくスクロールと違って,コデックスは途中の任意の箇所を直に開いて閲覧しやすく,ランダム・アクセスの容易さがある。(3)コデックスのほうが安価で製作でき,トータルで見ると耐久性でも勝っている。
 この要因を別な観点からまとめると,基本的に二次元平面で展開するスクロールに対して(a)三次元への空間的拡張,(b)リニアな時間性からの解放,それに加えて(c)経済性,ということになろうか。
 スクロールに対するコデックスの利点は,紙の書物(=コデックス)に対して電子書籍がもつ利点に類似しているのだ。

◆レファレンス・ブックとしての聖書
 コデックスの普及に関連してさらに特筆すべきは,その誕生からスクロールに取って代わるまでの時期が,古代ローマ世界においてキリスト教が広まっていた時期に重なるという事実である。当時のコデックスで現存するものを調べると,聖書をはじめとするキリスト教関連の文献の比率が圧倒的に高いという分析も,ロバーツやスキートらによって示されている。
 キリスト教徒たちがコデックスをあえて選んだ理由として,上記(1)と(3)がよく挙げられる。キリスト教が広まるには,必ずしも富裕ではない階層,特に商工業者がその担い手となった。商売のために旅することの多い信者にとって,信仰のよすがとなる聖典をコンパクトで持ち運びやすい形で得られるに越したことはない。布教者が聖典を持ち歩く場合も同様である。
 聖典が成立する過程を考え合せても興味深い。そもそも聖書という一冊のまとまりはコデックスの容量によって実現できたのだ。モーセ五書,史書,預言書,福音書,使徒書簡などは個々別々に巻物の形で存在していたし,新約聖書に限っても,正典であるマタイ,マルコ,ルカ,ヨハネの四福音書というユニットは冊子という形態によって初めて可能になった。
 媒体の形自体のプレゼンス,象徴性も機能する。巻物に聖典を記した先行宗教,殊にユダヤ教に対して差別化を図るためにコデックスを積極的に採用し,それが布教とともに浸透したという仮説も立てられた。
 だが,ここでもっとも注目したいのは,上記(2)の特性と聖書との関係である。
 聖書という書物は,通読されるばかりでなく,指針や助言を求めて,そのつど任意の箇所を拾い読みしたり,朗読したりするものである。むしろ,通読するよりも,その場に相応しい言葉や神の導きを求めて繙かれることが多いかもしれない。あらゆる教えが詰めこまれたはずの書物なのだ。従って,途中の任意の箇所を迅速に閲覧できる機能は待望されていたのではないか。聖書とは,信者にとって情報が網羅的であり,内部をランダムに参照することの多い,至高のレファレンス・ブックなのである。

◆書物史の果てしなき流れ
 元来,書物という記録メディアには,口承などのリニアで儚い時間性からの解放という願いが託されていたのであろう。書物の形態の変化を,その本質を一番に体現するレファレンス・ブックが牽引していくのは,ある意味で必然かもしれない。その根源に時間を超越するという志向が存在するなら,辞書も聖書も究極の書物の表象に相応しい。電子化は,リニアな時間からの解放という傾向を推し進める。スクロールからコデックスへと移行させた大きな流れは,滔々と続き,遂にはコデックスを電子書籍の海へ押し流そうとしている。そんな書物史が構想されてよいかもしれない。
【文献】Roberts, Colin H., T. C. Skeat. The Birth of the Codex. London: Oxford University Press, 1983./田川建三『書物としての新約聖書』(勁草書房,1997年)/星野渉「電子辞書からみた電子書籍普及のポイントと,日本ならではの電子化による出版産業へのインパクト」『漢字文献情報処理研究』第12号(好文出版,2011年)/湯浅俊彦『電子出版学入門』(出版メディアパル,2009年)