出版物研究に必要な学問「書誌学」  田中 栞 (会報135号 2013年8月)

出版物研究に必要な学問「書誌学」


田中 栞

 大学卒業後,出版社に勤務していたが,内容の編集制作だけでなく,他の工程すべてについての興味もあり,次第に書誌学を学びたいと思うようになった。書誌学とは,書物にまつわる,あらゆることを究める学問である。東洋の古典籍を対象として,これを実践する機関のひとつが慶應義塾大学附属研究所斯道文庫で,昭和59年頃だったと思うが,筆者は出版社に在籍しながら毎週水曜夕刻,ここで開かれる書誌学の講義に出席し始めた。
 講師は大沼晴暉教授で,内容は,斯道文庫所蔵本の書誌学的調査および目録記入事項の作成実修である。教材の多くが江戸時代の和装の出版物で,書名や著者名,版元名などの出版事項や製本形態はもちろん,本の大きさや表紙素材の色や模様,内容の構成要素や柱部分のデザインまでを細かく記録する。その後,目録カードに記載するべき簡潔な記述を吟味して完成させる。
 パソコンなど電子機器はない時代で,調べたことを記すのも,慶應義塾のクロスするペンのマークが印刷されたB5判罫線入り用紙に,鉛筆で一字一字手書きするという,アナログな行為の積み重ねであった。
 天下の孤本なら1冊の要素をノートすれば終わるが,たいていは同じ書名の同じと思われる本が多数存在し,可能な限り比べて調べるため,作業はすんなりとは終わりを迎えない。印刷した本であっても,実際に複数部数の本をそばに置いて調べてみると,思いのほか多くの相違点が見つかる。本の大きさや表紙の色,掲載された序文や跋文の順番,そして印刷文字も微妙に異なる書体だったりする。部分的に修正箇所があったり,記述が増えたりしている場合もあった。
 本が初めて作られ印刷されて世に出るのが「刊」,その版を後日ふたたび流用して刷るのが「印」(刷)である。更に,誤記や誤植が見つかって,版のその部分を修正して刷ることを「修」という。
 あまり需要のない本は,印刷される回数も一度きりで終わってしまう。一方,多くの人が読みたいと希望して人気が出た本は,版元が増刷を行う。その際,ミスを訂正すれば初版初刷とは少し違う部分のある本が生まれる。よく読まれ多数売れる本は,間違いの修正だけでなく,判型を小さくしたりブックデザインを変更したりと,様々な趣向でリニューアルして新たな読者を獲得し,ロングセラーになっていく。これは昔の出版も現代の出版も同様である。
 したがって,多くの種類が存在する本は,それだけたくさんの人に望まれ読み継がれたものであり,文化的な需要度が高い存在であると言える。出版物の刊印修を判定し,どれだけの異版があるかを明らかにする書誌学的作業は,こうした文化の背景を浮き彫りにすることにつながる。
 大沼氏の説く内容が非常に納得できるのは,氏が東洋古典籍書誌学の第一人者であるだけでなく,民具研究の専門家でもあることが大きい。書物の世界も民俗学の立場からとらえる視点があるからだろう。
 その書誌学の方法論を1冊にまとめるという企画は,私がその後入社した学術書の版元である汲古書院から提案された。しかし私が在社していた5年の間に原稿執筆は完了に至らず,氏の妥協のない書誌学的調査と同様,果てしない道のりを予想させた。
 結婚を機に退社した後も,編集や校閲の仕事をフリーで行う私のもとに,氏の手書き原稿や校正紙が,時折届いたのは平成10年頃だったろうか。求めがあれば作業はしたものの,ゴールは一向に見えない。書誌学は実物と対峙しての調査が必要不可欠であるため,その論著となれば,図版類も重要な要素となる。掲載図版のための書物を選定し,該当箇所を撮影して解説を付すのは,本文の執筆以上に困難を極めるのは必至であった。
 平成24年も暮れようかという時期になって,その本は私の元に届いた。赤いバクラム装の1冊はA5判上製函入で,私が汲古書院在社時代に触れていた出版物と同様,重厚かつ堅牢な姿で『図書大概』と銘打たれていた。行動力ある編集担当氏の編集作業と,ご自身も『書誌学のすすめ』(東方書店,2010)の著作のある斯道文庫教授・高橋智氏の尽力によって,途方もない年月を要するかに思えたこの上梓が,なんとか実現したのだった。
 本書は,和漢の古典籍をその主な対象とする。和本の最も一般的な形である整版本(木版刷りで作成する書物)の製作手順や,錦絵製作工房の組織の構造,日本独特のものである奥付の発生経緯と現状,上方版と江戸版の違い,そして地方出版に至るまで豊富な具体例を紹介する。加えて,近代以降の出版物についても,活版や紙型といった印刷技法をふまえた解説に努めている。
 機械の性能が向上したことで,近現代の出版物は印刷面や製本状態の差が判別しづらいが,書誌学的視点から見比べれば,発行部数の多い本ほどバリエーションが大量に存在することは容易に見極めがつく。
 今,出版物研究を行う際,どの本(刊印修)を対象とするか,検討してから始める人はどれほどいるだろう。ほとんどは,手元にたまたまある本を取り上げているのではないか。多くのバリエーションがある本は,それらをまず整然と交通整理して相互の姻戚関係を明らかにし,全貌を把握した上でなければ,的確な論を展開することはできない。古今東西,書物の理論は変わらない。出版物を研究対象とする人は誰でも,書誌学的な審定作業を経た上で行って欲しいと願うのである。