追悼・清水英夫氏 (会報135号 2013年8月)

■追悼・清水英夫氏

〈清水英夫氏 略歴〉

1922年 東京生まれ
1943年 学徒出陣
1945年 東京帝国大学法学部復学
1947年 中央公論社入社,大学卒業
1948年 近代思想社創立に参加
1949年 日本評論社入社
1956年 法学セミナー創刊(初代編集長)
1963年 東京大学新聞研究所非常勤講師(出版論)
1966年 青山学院女子短期大学助教授
1969年 日本出版学会創立に参加(常任理事)
1972年 青山学院大学法学部教授
1982年 本学会第4代会長(~90年),自由人権協会代表理事
1987年 弁護士登録
1990年 出版倫理協議会議長(~02年),映倫管理委員会委員長(~05年,その後特別顧問)
1991年 青山学院大学名誉教授,神奈川大学教授
1994年 放送批評懇談会会長(~05年,その後名誉会長)
1996年 本学会名誉会長(~08年)
1999年 情報公開クリアリングハウス理事長
2001年 法学博士号授与
2003年 BPO(放送倫理・番組向上機構)理事長
2010年 映像倫理機構最高顧問
2013年 逝去(6月19日)

 


清水英夫先生を偲んで

川井良介

 日本出版学会第4代会長・清水英夫先生は,学会設立と出版学の発展において大きな貢献をされた。
 学会は,1969年3月に設立されたが,これより1年前,清水先生は,布川角左衛門,美作太郎,信木三郎,吉田公彦,金平聖之助ら諸氏とともに,学会設立のための第1回の会合をもった。第2回の会合には,講談社社長野間省一氏が参加した。
 団体組織を設立するには,少なからず資金を必要とするが,野間社長の参加を得たことは,学会設立を加速したと思われる。野間社長の参加は,清水先生の旧制東京高校以来の親友である講談社インターナショナル社長の信木氏の働き掛けがあったと推測される。このような縁もあって,日本出版学会は設立された。
 学会設立から3年後,早くも,出版研究を包括的に論ずる『現代出版学』を上梓された。後に先生は,早い時期にこの書をまとめたのは,その後の議論の方向付けをしてしまったのかもしれないというような意味のことを漏らされたことがあった。
 清水先生は,出版学のパイオニアの一人であったが,メディアと法律に係る新しい分野「言論法」における文字通りの先駆者であった。先生ご自身も言明されていたが,出版研究よりも「言論法」に力を注がれた。出版の研究者の一人としては,これは残念なことであったが,それだけ社会の求めるところ大きいものがあったのだろう。2007年には,「メディア法と倫理に関する研究並びに実務」が評価され,「NHK放送文化賞」を受賞されている。
 また,出版研究の国際交流にも先鞭をつけている。最初の国際交流である「第1回国際出版研究フォーラム」(1984・ソウル)では,代表して報告している。こういうこともあって,2001年,韓国出版学の父といわれる安春根先生を顕彰する「第1回南涯安春根出版著述賞」を受けている。
 ところで,清水先生は,にぎやかなことが好きな方だった。30年以上前の総会・研究発表会の後では,清水先生の「学割=学者割引」で,神楽坂の料亭で,芸者を上げて楽しんだことがあった。また,ご著書の出版記念会では,芸者衆の舞いが花を添えたこともある。理事会のあとの懇親会でも,歓談の中心は多弁な清水先生であった。
 こういう先生であったが,授業では全く別人であった。1979年,先生の許しをいただき「言論法」を受講した。その授業では,一切冗談を言わず,ただ,淡々と講義するのみで,驚いた思い出がある。
 清水先生,先生方が設立した日本出版学会は,新しい多数の研究者を得て,発展しております。ご安心ください。

 


出版学の祖・清水英夫先生

山田健太

 清水英夫は〈業〉としての出版を〈学〉に融合させ,「出版学」を構築した。しかもその特徴は,単に机上の研究対象としたのではなく,あくまでも現場にこだわり,業のうえに立った学のあり方を追及したところに意味があるといえよう。その具体的な形が,出版学会の設立であり,出版研究の成果としての数々の著作である。
 出版ジャーナリズム研究の出発点は,鈴木均や吉田公彦が主宰していた現代ジャーナリズム研究所への参加で,これをきっかけにして67年に「出版学の可能性と必要性」(『週刊読書人』)を発表,初めて出版学を提唱することになる。その後,69年には「出版学の対象と方法」(『総合ジャーナリズム研究』48号)によって,よりその方向性を明確にすることになった。
 もちろん,その根底には出版社勤務時代の編集現場での経験,すなわち横浜事件やレッドパージ,組合争議やGHQ検閲を直接体験するなかで,出版の自由や出版人の良心の問題と直面せざるを得なかったと自身が回顧している。こうした体験談は,『マスメディアの自由と責任』(三省堂)や『出版ニュース』連載(2005年1月上旬号~6月上旬号)にまとめられている。本人曰く「疾風怒濤」の出版人生スタートの様子は,「文化通信」連載(2010年3月1日号~22日号)に詳しい。
 そして50歳の節目である72年に刊行された『現代出版学』(竹内書店)で,「コミュニケーションの科学として出版学」の成立をめざした。出版現象を総合的見地から捉えた意欲作であったが,本来的に中核となるべき出版の自由を含めた出版学の全体像を示したのは,20年を経たのちの95年にまとめられた『出版学と出版の自由』(日本エディタースクール)である。ただしその間も,言論法的アプローチでの出版分析は続いており,『現代出版論』(理想出版社)や『マスコミ産業入門』(ナツメ社,共著)『出版界入門』(同)を精力的に執筆している。
 学会活動としてはすでに,公法学会(憲法)や新聞学会(ジャーナリズム研究)を経験してきたなかで,当時の講談社社長・野間省一の後押しもあり,前出の吉田のほか,布川角左衛門,美作太郎,信木三郎,金平聖之助とともに68年,日本出版学会設立を呼びかけた(翌年に発足)。そして82年からは,会長職として学会活動の充実に尽力した。その過程において,アジア地域を中心とした国際交流にも熱心で,韓国・中国出版界との研究交流を深めた(その功績を称え,01年に韓国出版学会より第1回南涯出版著述賞を受賞された)。こうした国境を越えた活躍は,日本ジャーナリスト会議JCJや日本ペンクラブでの活動にも現れており,国際会議に日本を代表して参加している。また,95年にスリランカ・コロンボ大学にジャーナリスト養成のための基金(清水基金)を設立したことにも現れる。このように,さまざまな市民活動等に私財を提供してきたことも忘れてはならないだろう。
 「在野」が活動のメインフィールドであったことも,反骨精神を大切にする出版の立ち位置と相通ずるものがある。これは表現の自由を標榜する限り当然のことでもあるが,権力に抗し,常に市民の側に身をおき,市民活動に積極的にかかわった。自由人権協会JCLUや情報公開法を求める市民運動と,その後の情報公開クリアリングハウス,放送批評懇談会,さらには地元の宮前文化会議と,その活動の領域は幅広かった。その反面,生粋の江戸っ子としての粋(いき)や洒落(シャレ)を大切にし,神楽坂の文化をこよなく愛する一方,新宿のバーにも出没,昔から嗜んでいた麻雀と還暦を境に始めたゴルフで,さらなる交流の範囲を深め広げていた。それは常に「遊び」を大事にしていた清水哲学の表れでもある。
 84年の『人は本なしには生きられない』(サイマル出版会)は,「本は思想である」からはじまり「言論としての出版」を訴える一冊だ。その本に対するこだわりは晩年,古書コレクターとして発揮され,言論・出版の自由を中心に貴重な初版本の蒐集を楽しんだ。まさに「本」が人生そのものであった。