箕輪成男:真の日本のルネッサンス人を追悼して アルボレーダ・アマデオ (会報137号 2014年4月)

箕輪成男:真の日本のルネッサンス人を追悼して(註1)

アルボレーダ・アマデオ (城西国際大学教授)

 2013年9月18日早朝,古い友人から8月30日に箕輪成男が偉大なる87歳でこの世を去ったことを知らせる電話を受けた後,その日はさびしい一日となった。こうして,私は,彼の訃報を知り,私の親友であり,同僚であり,そして,共同研究者であり,また,メンターであり,上司であった彼を失ったことを思い知ったのであった。
 箕輪成男を知る多くの人が箕輪成男との経験や友好について語るのだろうと思う。私も彼らと同様にそれらを記したいと思う。
 箕輪成男は,いろいろな意味で非常にユニークな人だった。とりわけ,彼は,彼自身が,勇敢で鋭い発明家であると同時に,ときには,ビジネスマン,起業家,熟練の学者,そして国際主義者であったということを器用に実証した。
 まず,起業家として,彼は,1951年に二人の友人とともに東京大学出版会(以下「同出版会」)を設立し,出版業界に足を踏み入れた。同出版会は,後に,日本における大学出版部としては最大で最も成功した大学出版部となり,また世界的にも最も初期に設立された大学出版部の一つとなった。また,彼が同出版会の専務理事の間,同出版会は,アメリカ大学出版部協会で,初めてアメリカ以外の大学出版部として同協会のメンバーとなった中の一つとなった。彼は,同出版会が日本の学識と文化を海外に知らしめる重要な役割を果たすことで日本がますます国際的になっていくことを夢見ていたので,1969年に同出版会に国際出版部を立ち上げ,ニューヨークのアメリカンヘリテージ出版社にいた私にその部の編集部長になってほしいともちかけた。国際交流基金は,同出版会の功績を認め,1990年に同出版会に特別賞を授与した。
 また,国際主義者として,彼は,もっと個人的なレベルからも日本の国際化のプロセスに関わりたいと願っており,実はしばらくの間フランスで家族と一緒に生活するためにユネスコで働きたいという夢があることを,1974年に私に打ち明けたのであった。
 そして,当時の日本人としては,非常にまれなことだったと思うが,彼は同出版会を辞めて,1975年に50歳で国連に入った。そのとき彼は,海外で生活するという自分の夢をひとまずあきらめ,日本政府の監督下にあった当時東京に設立直後の国際連合大学に手を貸してほしいという日本政府の依頼を受け入れた。そして,その在職中に国連大学出版局の設立のための足固めをしたのだった。
 その後,国連を60歳で定年後,彼の長きにわたる学識の成熟した広範囲に及ぶ経験をもって,神奈川大学で教授として,国際経営学科を創設し,教鞭を取ったことは当然のことだった。
 そして,彼は,学識への更なる献身を実証すべく,2002年に76歳で上智大学で博士号を取得した。学者および起業家として,彼は,出版研究の分野で世界的に最も古い学術団体の一つである日本出版学会の創立者の一人であり,同時に同学会の代表者となった。
 彼の国際的な活動の中で,卓越した活動が2つある。
 一つは,出版者向けのトレーニングを始めるという趣旨でTBDC(註2)を設立した日本書籍出版協会の支援により,1969年にアジアで出版者向けのトレーニングを始めるのに助力したことである。
 もう一つは,1973年に東京大学出版会で若いアジア人の出版者向けの3か月のインターンシップを導入したことである。また,彼は,休むことなく日本と海外の出版社に関する国際会議を開催し,さまざまな国の数多くの会議に日本を代表して出席した。また,カナダの学術出版ジャーナルを含む数多くの国際的なジャーナルの顧問委員会の委員をつとめ,彼が創立メンバーの一人であり初代の代表であった今はなき国際学術出版協会を含むいくつかの国際的な学術出版団体の顧問委員会の委員をつとめた。
 彼の最も著名な執筆は,「社会的文脈での書物出版――日本と西洋の比較」という1990年版の翻訳本(註3)であった。それは,出版およびそれが社会的発展に与える影響に関する進化と発展について,異文化間の視点から提案したものである。
 個人的に,私は,彼に多大なる恩義がある。彼は,私の79年の人生の55%に当たる44年間にわたり,非常に重要な人物であった。つまり,まず,私は1969年に同出版会の国際的な活動の構築に助力すべく,彼から日本に招待され,その後彼が国連大学に入った後,国連大学に呼び寄せられ,私はそこで国連大学出版局長となり,そして,その後再び,彼の紹介により,城西国際大学の教授となり,出版文化論および国際コミュニケーション論の教鞭を取ることになった。しかし,私が彼を通して得た経験は,彼が巡り合った人々の人生に与えた影響のほんの一例でしかない。
 彼の死は,海外の専門家及び学者や,日本およびそれ以外の国における出版研究の多様な業界において,大きな喪失感をもたらしている。
 彼は,真の日本のルネサンス人であった。

註は編集部による。
註1:本稿は,「A Personal Tribute to Shigeo Minowa: A Japanese Renaissannce Man Passes」(Journal of Scholarly Publising, University of Toronto Press, January 2014)の筆者による日本語訳である。
註2:Tokyo Book Development Centre財団法人ユネスコ東京出版センター
 *2014年現在,(一財)ユネスコ・アジア文化センター
註3:本書は,既刊3著作の抜粋から成り,Japan Scientific Societies Pressから,英語で1990年に刊行された。同社は既に解散している。