第14回 国際出版研究フォーラムに参加して 「南京の匂い」 長谷川 一

■第14回 国際出版研究フォーラムに参加して 「南京の匂い」

 長谷川一(明治学院大学)

 南京の街は微かに中華香辛料の匂いがした。ふだんは気にならないが,ふとした瞬間に,ここは中国なのだと気づかされる,そんな匂いだ。夕食会に供される南京料理はあんがい淡泊。でもやはり中華というしかない独特の味がした。
 グラスを片手にひとりの中国人研究者が議論しにやってきた。日本の大学にはなぜ出版学の学位を出す体制がないのか,産業人や研究者の養成が領域の地位を高めることになるだろうにと迫るのだ。まいったな。
 ぼくはまず,日本の学的状況のなかでのひとつの帰結なのだと答えた。そのうえで,出版学会の黎明期にみられた「出版学」をめぐる議論や,日本におけるマスコミュニケーション研究やメディア研究の流れとの関連などを話しつつ,「出版」を「学」として成立させることは,困難であるだけでなく,必ずしも必然性を見出しにくいのだと説明した。
 けれどもこの説明に,かれは納得しなかった。無理もない。そもそもかれの発想は,教育・研究と産業とが対応関係にあるような実学的枠組みを前提しているからだ。それは個人的感想というより,かれらの社会のあり方に根ざしていると理解すべきであろう。
 かれらの社会では「思想」は別の部門が受け持っているのだし,そうでなければならない。現代中国において知はその文脈に埋め込まれている。日本は日本でまたそうであるように。
 あのときの,どうにも腑に落ちないという,かれの表情を,いまも想いだす。すると鼻の奥に,あの街を満たしていた微かな匂いが蘇ってくる。