『物類品隲』出版経緯に関する一考察 松田泰代 (2008年5月 春季研究発表会) 

史料から見た

『物類品隲』出版経緯に関する一考察 (会報122号 2008年10月)

   松田泰代

 『物類品隲』は,本文4 巻,図絵1 巻,附録1 巻の計6 巻6 冊からなる大本である。書名には,「物産を品評して定める」という意味がある。本文巻首に,「藍水田村先生鑒定/讃岐 鳩溪平賀國倫編輯/東都 田村善之/中川鱗/信濃 青山茂恂校」と明記されていることにより,平賀国倫(号=鳩溪)こと源内が編集し,その師である田村元雄(号=藍水)がかかわって21 いることがわかる。藍水は後藤光生とともに序文を寄せており,源内は凡例で成立に関する経緯を述べている。 この書物の成立経緯は,「宝暦十二(1762)年海内の同士に告げ物類会を開催した。凡そ30 余国より品種1300 余種をあつめ,以前からの4 会を合わせて通算すると2000 余種が異国のものを含めて大いに集まり,そこでその中から選んで編集した」とのことである。以前からの4 会というのは,藍水が宝暦七年に湯島で開いた薬草会,宝暦八年に同じく藍水が神田で開いた薬草会,宝暦九年に源内が湯島で開いた薬草会,宝暦十年に藍水の弟子松田長元が市ヶ谷で開いた薬品会である。この書物を成立させるきっかけとなった宝暦十二年の壬牛の会(東都薬品会)は,規模も内容も画期的なものであった。 管見の限り『物類品隲』には,「松籟館蔵版」「赤井館蔵版」「青藜館/種玉堂合梓」の3 種類が存在する。『物類品隲』は,宝暦十三年七月の刊記を持つ。「松籟館蔵版」の特徴は,「松籟館蔵版」と1 巻見返しと刊記に記載されており,書肆としては須原屋市兵衛,植村藤三郎,柏原屋清左衛門の名が確認できる。「赤井館蔵版」は,1 巻見返しと刊記に「赤井館蔵版」と記載されており,書肆としては須原屋市兵衛,柏原屋清左衛門の他に柏原屋與左衛門,河内屋喜兵衛,北村佐衛門の名が見られる。「青藜館/種玉堂合梓」の特徴は,「文化三丙寅年求版」とあり,1 巻見返しは「青藜館/種玉堂合梓」であり,刊記には「赤井館蔵版」とある。書肆としては,今津屋辰三郎と河内屋儀助の名が見られる。杉本つとむは,関東系「松籟館蔵版」の印顆の有無,関西系「赤井館蔵版」の中に「赤井館蔵版」「青藜館/種玉堂合梓」の版があると整理し,2 種4 類と数えている。 今回の発表では,史料「割印帳」「開板御願書扣」「寛政二戌年改正板木総目録株帳」「文化九壬申年板木総目録株帳」を中心に,書肆須原屋市兵衛と『物類品隲』の関係を明らかにし,「青藜館/種玉堂合梓」の位置づけを行った。 『物類品隲』は,宝暦十三年七月に開版され,明和元年六月二十五日以降に販売された。「松籟館蔵板」から「赤井館蔵板」への変化は,板木が江戸から大阪に移ったことに起因し,大阪の史料により明和二年八月五日以降寛政二年九月二十日以前の期間であることを述べた。 また,「大本用短冊形二段八行蔵版目録」の四類全てに『物類品隲』の記載があることから,寛政二年ぐらいまでは市兵衛が受注に応じられる状態にあったであろうことを述べた。 この二点から寛政二年ごろに板木が大阪へ流れたのではないだろうかと推測している。次に,「赤井館蔵板」の刊記に市兵衛の名前がまだ記載されていること,大阪の記録簿である「寛政二戌年改正板木総目22 録株帳」には五冊と一冊欠けた状態で記載されており,相合板である明記がなされていないことから,一冊分の版権は別に市兵衛が所有していたのではないかと結論づけた。「青藜館/種玉堂合梓」は,「文化三丙寅年求版」と明記されているとおり,丙寅の火事で被災した市兵衛から版権の譲渡を受け,今津屋辰三郎と河内屋儀助が,改めて板木を合梓した可能性を述べた。「求版」(板ではなく版の場合)という用語は,焼株など板木の現物を伴わない権利を求めた時に限定的に使われた可能性があるのではないかと推測している。 今後の課題は,「蔵板」と「蔵版」には意味の違いがあるのかないのか,意図して使い分けがなされていたのかについて探求していきたい。「求版」という用語が使われる場合の条件についても考えていきたい。

(初出誌:『出版学会・会報122号』2008年10月)

なお,「春季研究発表会詳細報告」(pdf)がご覧になれます。

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