日露開戦過程における雑誌『東洋』に関する一考察  石川徳幸 (2012年5月 春季研究発表会)

■ 日露開戦過程における雑誌『東洋』に関する一考察
 (2012年5月 春季研究発表会)

石川徳幸

 『東洋』は貴族院議長であった近衛篤麿が出資した個人雑誌で,国民同盟会の機関誌的役割を担った雑誌である。明治34年(1901年)4月10日に創刊され,同年12月まで毎月10日と25日の2回発行された。報告では,この雑誌が日露開戦期においてどのような役割を果たしたのかを明らかにした。

『東洋』創刊の経緯
 近衛篤麿の日記によれば,雑誌『東洋』を創刊する準備が始まったのは明治34年の1月頃である。近衛篤麿は『東洋』の編集にあたらせる人材として,日本新聞社で貴族院を担当していた記者・五百木良三に白羽の矢をたてている。3月10日の日記には「面会 陸実 日本社より五百木を経緯社に転ぜしむる事に付相談其他」とあり,日本新聞社の社長兼主筆である陸羯南と面会して五百木良三を経緯社に引き抜くことの了承を得ている。
 このようにして準備の進められた雑誌『東洋』は,国民同盟会の意見を広めることが目的であったために,最初から売れるか否かといった問題は考えずに利益は度外視していた。例えば,2月28日付の全国同志記者倶楽部の『通報』は,この雑誌が「広く欧米諸国及び清韓の重立ちたる政治家,新聞,雑誌社等へ頒布する計画」であると紹介している。

東洋倶楽部
 雑誌『東洋』の論壇欄には,出資者の近衛篤麿や,戸水寛人・寺尾亨・中村進午などの学者,大隈重信や青木周蔵,小川平吉などの政治家による論説が寄せられた。論壇欄の他にも「大勢」や「時論」などのページが設けられ,また巻末には国民同盟会や東亜同文会の活動内容が記載された。この国民同盟会や東亜同文会と並んで活動が報告された団体に,東洋倶楽部がある。東洋倶楽部の実態については判然としない部分も多いが,近衛篤麿を慕った若手によって構成されている。構成員については,「新入部者は惣て全部員の承認を以て許可する事となし,四十歳以上の入部希望者に対しては別に幹事に於て其手続を定め特別員を以て之を遇する」と定めており,30代以下のメンバーを中心とした青年組織であったことがわかる。この青年組織は経緯社社員を網羅しており,事実上,雑誌『東洋』の運営に関与した組織であったと見做してよいだろう。

『日本週報』との合併とその後
 雑誌『東洋』が創刊した明治34年(1901年),陸羯南が主宰する日本新聞社に対して近衛篤麿が資金の援助を行う旨の話が持ち上がることになる。翌35年1月7日に,近衛篤麿と陸羯南との間で出資する約束が交わされていることが『近衛篤麿日記』からうかがうことができる。近衛篤麿は出資の条件として,雑誌『東洋』と五百木良三ら経緯社社員を日本新聞社が引き受け,『日本週報』の題号を『東洋』と改題することを提示している。『日本週報』とは日本新聞社が本紙とは別に,毎週月曜日に発行していた附録である。附録とはいっても『日本週報』単独での購読も可能で,近衛篤麿が出資する以前は文学記事中心の紙面構成を採っていた週刊紙であった。結局,この条件に関しては,『日本週報』の題号はそのままで,第1面に「東洋」と題した論説欄を設けるなど紙面の改編を行うことで話がまとまったようである。
 『東洋』と合併した『日本週報』はその後,対露強硬論の先鋒となっていった。ロシアが満州からの撤兵を約束した2回目の期限である明治36年4月が近づくと,『日本週報』は伊藤博文などが主唱していた満韓交換論を否定し,「勇往敢進満州を露国の鉄握より救済せざる可からざる」と主張して,さらには「只断乎として当初の志を遂行するに勇往放進し,干戈尚ほ辞せざる可きなり」と強硬な意見を展開している。これは他紙はもとより『日本』本紙の論調と比しても強硬なものであった。『日本週報』のロシアに対する立場は一貫しており,クロパトキン陸相が来日した6月においても「今や只断あるのみ,断々乎として吾国千歳の禍根を芟除するに努めんのみ」と主張し,8月になると「何故に開戦を躊躇する歟」と他紙に先駆けて開戦を唱え,9月に至っては「日露開戦論」という明快な主題で東洋欄を飾るのである。

おわりに
 雑誌『東洋』は国民同盟会の機関誌的な存在と見做されるが,その本質は先述のように貴族院議長であった近衛篤麿の個人雑誌である。明治中期は新聞雑誌が商業化する過渡期にあったが,明確な政治的主張を行うには近衛篤麿が行ったように利益を度外視した個人雑誌の形態が有効であったと言えるだろう。しかし,五摂家筆頭の近衛家とはいえ資金が潤沢にあったわけではない。雑誌『東洋』を廃して『日本週報』に合併させたことは,東京府下に展開する既存のマス・メディアを利用した効率的なメディア戦略とも見受けられる。そのようにして『東洋』は『日本週報』と合併し,日露開戦過程において早期開戦論を他紙に先駆けて主張したのであった。