第42回日本出版学会賞 (2020年度)

第42回 日本出版学会賞審査報告

 第42回日本出版学会賞の審査は、「出版の学術調査・研究の領域」における著書を対象に、「日本出版学会賞要綱」および「日本出版学会賞審査細則」に基づいて行われた。今回は2020年1月1日から同年12月31日までに刊行・発表された著作を対象に審査を行い、審査委員会は2021年2月14日、3月17日の2回開催された。審査は、出版学会会員からの自薦他薦の候補作と古山悟由会員が作成した出版関係の著作および論文のリストに基づいて行われ、その結果、日本出版学会賞奨励賞2点、同特別賞1点を決定した。また、清水英夫賞(日本出版学会優秀論文賞)の審査を行い、第3回清水英夫賞1点を決定した。


【奨励賞】

速水香織 著
『近世前期江戸出版文化史』
(文学通信)

[審査報告]
 1670年代から1750年代にいたる期間の書肆の活動や出版物、出版統制に関わる史料や記録を考察することにより、江戸前期の出版文化の具体的様相を明らかにしようとした労作である。とくに、出版物の刊記に登場する人名に着目し、京都・大坂・江戸の三都の板元の関係性を読み解こうとした点に本書の特色がある。本書の中心人物は井原西鶴の浮世草子を江戸で販売した万屋清兵衛で、巻末に付された大部の「万屋清兵衛出版年表」は資料的価値も高い。
 むろん「出版文化史」という壮大なテーマから見た場合、本書の叙述が著者が述べるように事例紹介にとどまっている側面も否めない。しかし、本書の成果は、元禄以降、文化の中心が上方から江戸へ移行していく時期の考察として貴重であり、江戸の代表的板元である須原屋茂兵衛が台頭していく時代の出版史像を豊富にするものとして今後の研究に裨益するところ大である。よって、日本出版学会奨励賞に相応しい作品と評価できる。

[受賞のことば]
 速水香織

 此度は、拙著『近世前期江戸出版文化史』に、栄えある第42回日本出版学会賞奨励賞を賜り、誠に有難く嬉しく存じます。受賞のお知らせを戴きました時には、全く思いがけないことで大変驚きましたが、拙著をこのようにご評価下さいました審査委員の先生方ならびに日本出版学会関係者の方々に、心より感謝申し上げております。
 拙著は、博士論文「近世前期江戸出版文化研究」(2007年、皇學館大学)に大幅な加筆修正を加えたものです。「あとがき」にて自省し、審査結果においてもご指摘戴きましたとおり、未だ個々の出版書肆における出版事例報告の域を出ないものではありますが、岡田圭介氏(文学通信)から出版のお声掛けを戴きましたことから、現時点での成果をまとめる決意を持つことができました。そのきっかけがなければ、拙著が世に出るのは遠い未来のこととなっていたかもしれません。岡田氏はじめ文学通信の皆様方に、この場をお借り致しまして、あつく御礼申し上げます。
 拙著では、近世前期に大きな発展を遂げた出版文化の中で、特に江戸という地域に着目し、個々の書肆が活動の規模を拡大し始める1680年代から、本屋仲間結成を経て他地域と密接に係わりつつ組織的な活動が定着する1750年代までを対象として、木版本の調査に基づく個々の出版事例の蓄積から、地域としての出版文化の様相および時期による変遷を明らかにしようと致しました。その中で、従来言及されることの少なかった江戸書肆の活動実態や出版物の特徴を、幕府の出版統制のあり方にも留意しつつ描き出すことに努めました。
 書肆活動の実態を知るために、まずは対象とした書肆の署名が確認できる刊記情報の収集、年表化を始めましたが、これは、当時大学院生であった私の想像を大きく超えた困難な作業でした。出版物の調査に漏れがどれほどあるのか、求板本の刊記情報をどこまで信頼してよいのか、その調査結果に基づく自分の考えは果して妥当なものだろうかという不安が常に付き纏っておりました。この不安は現在においても変わらず抱き続けております。しかし同時に、一連の作業を通じて、対象とした書肆たちが広範な人的交流を長期に亘って保ち、その中で実に多様な出版物を生み出していた姿を部分的ではあれ示すことができ、また時期を経るに従って地域としての活動規模が拡大してゆくさまを実感として知ることができました。
 此度の受賞を励みとし、今後も地道に、出版文化史の担い手となった書肆たちの活動を追いつつ、出版物としての文芸が持つ意味についても考えてゆくべく、精進致します。

 


【奨励賞】

鈴木淳世 著
『近世豪商・豪農の〈家〉経営と書物受容――北奥地域の事例研究』
(勉誠出版)

[審査報告]
 近世後期、陸奥八戸藩領において、貧農の利益に配慮して活動した豪農・淵沢家と、因果応報に基づき領主権力と接近した八戸城下の豪商・石橋家を取り上げ、その思想形成と行動を複数の史料から論証した研究書である。考察の中心は淵沢家の農業経営、藩が管理する鉄山経営の実態解明にあるが、彼らの行動の背景として「書物受容」に注目している。そこでは、中間層である豪農・豪商の書物受容の在り方が、身分差・地域差に規制されるとともに、それが支配層と被支配層への対応の違いとなり得る可能性が示唆されている。いまだ実証はされていないが、従来の豪農層における書物受容の理解に奥行きを持たせる論点である。
 審査委員会の議論では、本書の主たる関心は書名にもあるように豪農・豪商の「〈家〉経営」にあり、書物受容の解明はその手段にしか過ぎないのではないかとの意見も出された。しかしながら「〈家〉経営」を解明するために書物受容という視点を本書はかなり重視しており、近世出版文化史研究への裨益も大きいと思われる。今後の研究を多面的に進展させる可能性を秘めた著作として、奨励賞に相応しいと判断した。

[受賞のことば]
 鈴木淳世

 この度は拙著に日本出版学会賞奨励賞を賜り、深く感謝いたします。これまで直接的に「出版」の研究を行ってきたとは言い難く、今回の受賞は全く想定していませんでした。いずれにしましても、大変光栄なことではありますので、心より御礼を申し上げます。
 そもそも、1960年代以降、近世日本の豪農・豪商(中間層)に関する研究が進み、彼らの立場性について盛んに議論されるようになりました。しかし、従来の豪農論・中間層論では豪農・豪商の経営分析に焦点が据えられており、彼らの思想にまで踏み込んだ研究は多くありませんでした。思想史の領域では、豪農論・中間層論の不備を指摘し、豪農・豪商の思想分析を行った研究者もいましたが、その研究は「伝記」や著作のテキスト分析に終始しており、経営分析を行っていませんでした。豪農・豪商が常に思索にふけっていたわけではなく、彼らの主要な関心の一つには必ず《家》の経営があったと想定されることを踏まえれば、テキスト分析のみで彼らの立場性を詳らかにすることはできません。豪農論・中間層論を《経済》的要因の重視、思想史を《思想》的要因の重視と概括することが許されるならば、《経済》か《思想》かの二者択一ではなく、両者ともに絡み合いながら人間の行動を規定していたのではないかという問題意識をいだいたとも言えるでしょう。
 上記の問題意識を踏まえ、豪農・豪商の立場性を詳らかにするためにはテキスト分析と経営分析を組み合わせ、彼らの思想の形成過程を検討する必要があると考えるようになりました。さらに、最近の書物研究の手法に学び、豪農・豪商の蔵書形成・書物受容や、その背景にある書物流通・書物貸借の状況まで検討する必要があると思うようになりました。そこで、本書では19世紀前半の八戸藩地域をフィールドにして八戸藩領陸奥国九戸郡軽米町(現岩手県九戸郡軽米町)の豪農・淵沢家と八戸城下廿八日町(現青森県八戸市)の豪商・石橋家を取り上げ、両家の人びとの思想形成について詳しく検討し、その上で彼らの立場性を分岐させた要因について考察しました。無論、本書において豪農・豪商の思想形成の分析および彼らの立場性の議論が十分になされているかと言われると心許ない気持ちになります。八戸藩地域に限っても、なお膨大な史料が残されており、多くの課題が残されています。今後は、八戸藩地域の豪農・豪商の思想形成分析を深めると共に、他地域の豪農・豪商との比較も視野に入れながら研究を進めていきたいと考えています。

 


【特別賞】

凸版印刷株式会社印刷博物館
(『日本印刷文化史』(講談社)の刊行および印刷博物館の活動全般)

[審査報告]
 印刷博物館は凸版印刷総合研究所の印刷史料館を前身とし、印刷全般に関する本格的な博物館として、2000年に開館した。爾来、「ヴァチカン教皇庁図書館」(2002)、「印刷革命がはじまった グーテンベルクからプランタンへ」(2005)、「ミリオンセラー誕生へ!――明治・大正の雑誌メディア」(2008)、「印刷都市東京と近代日本」(2012)ほか、多数の企画展示および図録の作成、資料の保存・公開、講演会等を通じて、出版研究に大きく寄与している。開館20周年を記念して編まれた『日本印刷文化史』(講談社刊)は、文化史、メディア史、社会史的の要素を積極的に取り入れた、新たな視点による通史であり、この刊行を機に特別賞をもって顕彰したい。

[受賞のことば]
 印刷博物館館長 樺山紘一

 この度は、第42回の日本出版学会賞を拝受しました。印刷博物館としては、思ってもみない光栄であり、感動もひとしおでございます。当面の対象は、当館が編集・発行した書籍『日本印刷文化史』と、その英語版です。同書は、印刷博物館が、日頃の調査と展示の中核とする日本の印刷文化史を、全体として俯瞰しようとするものです。多様なコンテンツをもつ文書や図像の印刷が、日本の文化史・社会史のなかで、どのように展開したかを、博物館展示と関わらせながら祖述しました。先学の諸労作を受けつぎながら、新たな視点や論点の開発を目指そうとしたものです。
 じつは、これは今般チャレンジした、博物館の展示リニューアルと連結した成果です。ちなみに私たちの博物館は、先頃、創立20周年を達成しましたが、その間にあって、博物館としての事業の展開に当たってきました。今回、この件についても表彰の対象としていただきました。
 さてそのリニューアルに当たって、あらためて確認したのですが、博物館としての基本的なターゲットは、「専門性」、「公共性」、「国際性」にあります。本邦で初の試みとなる英語版をあわせ、印刷文化史に関わるこれらの出版物と博物館活動が、日本における新しいムーヴメントを引き起こす契機になればと念じています。
 加えて、専門性の追求はもとよりのこと、市民・学生から産業界まで、広い範囲の方がたにもアッピールする社会的公益性を視野に収めたいとも考えます。これらは、いささか分際を超えた抱負と希望かもしれませんが。
 いずれにせよ、広く江湖の皆さまから、ご指導とご支援を賜りますよう、お願いする次第です。ありがとうございました。

 


【清水英夫賞(日本出版学会優秀論文賞)】

張 賽帥 著
「雑誌『東亜時論』(1898-1899)にみる東亜同文会の中国時局観」
(『出版研究』50号掲載)

[審査報告]
 本賞は、過去2年の『出版研究』に掲載された論文を対象にし、将来性に富む優れた研究論文を顕彰することを目的としている。第3回目の今回は、『出版研究』49号および50号所収の4つの公募論文を審査対象とし、表題の論文を選出した。
 本論文で取り上げた東亜同文会は、日清戦争後の対外政策の機運の中で設立され、日本の対中国政策において大きな影響力を持ったとされる。その最初の機関誌が『東亜時論』であり、多くの新聞記者が会員となって、東南アジア情勢を伝え、有力新聞の論調をも左右しかねないような論説が展開された。本論文はこの『東亜時論』全26号を子細に読み込み、中国時局観についての論説を抽出して分析したものである。日本の中国進出に対する政策論争などについて、中央政府の統治権に対する二重的認識、地方有力者に対する肯定論と懐疑論など、決して一枚岩とは言えない言説を丁寧に分析している。
 本論は博士論文の1章分が中心となっており、筆者は本論文の投稿後にさらに2章分の分析を加えて博論として完成させている。中国人留学生が、このような日本人の中国史観に影響を与えた政治雑誌を読み込み、丹念に分析を行ったことも評価に値するといえよう。本賞の精神は、まだ業績の少ない若手研究者を視野に、「将来性に富む優れた研究論文」を対象に選考することであり、清水英夫賞にふさわしい論文と判断した。

[受賞のことば]
 張賽帥

 この度は、日本出版学会清水英夫賞を頂戴したことに深く感謝申し上げます。ご指導いただいた先生の方々や、査読や選考に携わった全ての方々、本研究に関して助言いただいた方々に御礼申し上げます。本論文は、春季研究発表会で口頭発表をしたものであり、その際には諸研究者や先生の方々に貴重なご意見を頂いたことに多大なる感謝の気持ちを抱いております。
 本論文は、博士論文『十九世紀末における東亜同文会の中国観――『東亜時論』に注目して』の1章分が中心となっており、『東亜時論』を研究対象として東亜同文会の草創期における形成された中国時局観を検証したものであります。十九世紀末に設立された民間団体東亜同文会は、日中関係に多大な影響力を持ち、日本全体の中国観形成に重要な役割を担いました。同会の会員には多数の新聞記者が存在し、彼らは当時『萬朝報』、『東京朝日新聞』、『読売新聞』、『日本』のような日本の有力な新聞社に勤めている人物たちでありました。東亜同文会が発行した機関誌『東亜時論』は、同時代の有力論説誌に匹敵する平均発行部数を獲得しており、他の雑誌と比較しても標準的な価格に設定されていました。本論文は、『東亜時論』の言説を分析し、誌面に掲載された中国問題を扱う論説を通し、同会の草創期における中国時局観について、特に、「中央政府」と「地方有力者」を分ける視点を軸に検討しました。
 『東亜時論』には、「中央政府」へ政権維持の意義を述べる言論も、現状を批判する言論も掲載されており、具体的な政策提言につながる言説は決して一枚岩だった訳ではありませんでした。「地方有力者」については、肯定論と提携論を中心とする論調がほとんどであり、張之洞と劉坤一への肯定的な評価が多く認められました。しかし、懐疑的な見方をする論調もあり、特に張に対する懐疑を持つ者もいました。また、本稿は外務省の文書や要人の資料も参照しながら検討を行ないましたが、東亜同文会は単に同会の中国進出のみを計ろうとしたのではなく、外務省の対中方針へ配慮した論調があったことも確認されました。
 本受賞を励みに、より一層新進して参りたいと思います。