第15回日本出版学会賞 (1993年度)

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第15回日本出版学会賞 (1993年度)

 第15回日本出版学会賞の審査は,日本出版学会賞要項および同審査細則にもとづき,1992年10月1日から93年9月30日までの1年間に発表された,出版研究の領域における著作を対象に行われた.
 審査会は,1993年10月25日から94年4月25日までのあいだに,計7回開かれた.審査作業は,審査会の委嘱により大久保久雄会員が収集した対象期間内出版関係著書リスト,古山悟由会員による同論文リスト,および会員からの推薦(アンケートによる)を基礎として開始された.
 審査会は,学会賞要項における対象作品の定義をめぐる議論に,多くの時間を費した.その結果,「出版研究領域における優れた著作」に対して授与する,という現行規定の「研究」の意味について,審査委員の抱く許容範囲が必ずしも一致しないことが明白となった.
 審査委員会は,学会運営上,今後この点の明確化が必要であると考え,別途,理事会に提言を行うことを決めた.
 以上の議論を前提に,現行規定の範囲内で結論を模索した結果,今回は次の2点の作品が,佳作に該当する著作として,表彰に値するとの結論に達した.


【佳作】

 佐藤隆司・杉本昌彦
 「わが国における専門辞書の成立と発展」(『出版研究』24号)



 [審査結果]
 本論文は,ある学問領域において,その高度化が一定度に達すると,体系化の作業がはじまるとの前提に立ち,明治以降に刊行された化学辞書を網羅的に観察し,明確な方法にもとづいて分析し,問題点を探った実証的論文である.目的・テーマの設定,資料の収集,多様な分析視角等,間然するところなく,他の学問領域における今後の同種研究に資するところが大きい.強いて難をあげれば,分析視角が図書館学における書誌的事項に限られ,化学あるいは出版学の観点からすれば,やや膨らみに欠ける点であろう.しかしこれらの問題についても著者は十分自覚して再三言及しており,今後一層充実した内容の続編が期待される.


 [受賞の言葉]

 模索しつつ  佐藤隆司

 この度は学会の賞を頂くことになり,全く驚いている.全ての研究者がそうだと思うが,研究しようと思っていることは,幾つもの学会にまたがる.私は図書館の現場の経験もある図書館屋であるが,自分の学問を恩師の馬場重徳先生にならって,文献科学と言おうと思っている.馬場先生は自然科学的発想の豊かな方であったが,私は社会科学的になるという違いがあるが.
 私は,学問の成長のどの段階でどんな文献が誰に担われて生まれるかということに注目してみたいと思ってきた.しかし,今にいたっても迷っている問題がある.それは,いずれかの学問分野の中でそういうことを調べるにしても,その分野の素人であるということである.
 その分野の素人でも,それを克服して何らかの意味ある結論を得る方法はあるだろうか.文献科学といったが,それはドキュメンテーション学,出版学,図書館学,科学社会学などを入れ込んだ学として想定しているだけのものであって,確立したものではない.正直いって,手探りでやっている状況である.しかし,そうやって何か意味ありそうなことが出たら,書いてみようと思った.それに対し批判を受ければそれは幸いなことと思うべきである.
 今回賞を頂けることになった「わが国における専門辞書の成立と発展―化学辞書を例に―」も,相当叩かれることを覚悟しながら出したものであった.これを原稿化するには長い時間がかかった.相棒の杉本昌彦君は図書館情報大学の第一回生である.彼とは彼が1年生の時から妙に縁があったのであるが,4年生になって卒業研究をするとき,上にのべたような私の発想に共鳴してくれて,私のところで研究することになった.そして具体的テーマは明治以降の化学辞書の成立と発展ということにし,データをとることにした.
 データをとるといっても,ドキュメンテーション的立場から,辞書を手にとり,その姿,形を分析し傾向を探るという方向になった.しかし,良いデータが出たと思ったし,これを私の書棚の中に置いておくだけでは勿体ないと思った.私の授業の中で使ったりしていたが,外には発表していなかった.そうしているうちに10年がたってしまった.
 一昨年,牧野氏から何か原稿を書くよう勧められた時,ふと彼のデータを生かせないかと思った.しかし,外に発表するには,データの不備があり,かつこのようなことをやるわれわれなりの意味付けが必要であった.彼は上智大学の図書館職員であるが,仕事を終えてから筑波まできてもらい,夜10時~11時まで私の研究室で作業し,その後近くのホテルで彼は徹夜し,朝早くできたものをフロントにあずけて出勤した.そんなことを何度か繰り返して作ったのがあの原稿である.
 しかし,データといっても,足し算割り算程度の方法でのものであり,かつ化学の素人であるわれわれの仕事が,一体何なのだとはわれわれ自身が何回も問いつつ提出したものであった.
 今回の受賞が辻さんの「翻訳史のプロムナード」という文化の香りの高い作品と並んだことをわれわれは大変光栄に思うとともに,多様なものを受け止めて下さる学会執行部の懐の深さに敬意を表すものである.





【佳作】

 辻 由美
 『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)



 [審査結果]
 本書は,日本ではじめて本格的に翻訳史を取り上げた研究書である.著者の関心が,特にフランスに集中していることから,フランス翻訳史にウェイトがかかっている嫌いはあるが,膨大な内外の資料を駆使して,翻訳が古代中国,ギリシャ,イスラムにはじまり,あらゆる世界文化の交流にいかに貢献して来たかを明らかにしている.本書のアプローチは必ずしも厳密な意味での学術研究論文の体裁をとっていないが,翻訳史研究という領域を,日本ではじめて切り開いた広義の研究書として,審査委員会の強い推薦を受けたものである.


 [受賞の言葉]

 翻訳史の散策(プロムナード)をはじめた動機  辻由美

 思いもかけず賞をいただくことになり,とてもうれしく思います.
 翻訳家のはしくれのひとりとして,常日頃いちばん頭を悩ませているのは,原文のもつ「熱」としか呼びようのない何かを,どうすれば訳文に移しうえることができるかということです.訳文はともすれば原文より「アカデミック」な雰囲気をもつものになりがちだからです.そんな事情もあって,『翻訳史のプロムナード』の執筆の際にも,アカデミックな感じをあたえない本にしようとずいぶん苦心しました.それにもかかわらず,出版学会が拙書を評価してくださったことを心から感謝いたします.
 日本では,どちらかといえば日本の特殊事情という観点から翻訳が語られます.「翻訳大国」としての日本が云々されるとき,そこには,「いつまでたっても独創性をもちえない」という苛立ちや自嘲が見え隠れすることもあり,逆に,「これほど他の文化に対する受容能力のある国はどこにもない」という居直りがうかがわれることもあります.
 このことが私にはいささか不思議に思えていました.異文化の導入にともなう問題はどこの国でも共通したものがあるはずだという確信があったからです.もっとも,もし私が最初から外語畑の出身だったら,そういう疑問はもたなかったかもしれません.私がフランス語を勉強することになったのは,まったく偶然に,1960年代の末から8年ちかくフランスに滞在することになったからです.私は生物物理学の研究室におりましたが,海外旅行が自由化されたばかりだったこともあって,外国に行きたくてうずうずしていたとき,フランスならツーリストのパスポートでも滞在許可証がもらえるということを知ったので(今はもうそれは不可能),フランスに行くことにしました.
 もちろん,フランス語はABCの読み方も知りませんでした.こわさも感じないほど無知だったわけです.異文化との接触はきわめて唐突だっただけに,それはすばらしく新鮮なものでした.フランス文学の名作も,ほとんどはフランス語で読んだのがはじめてでした.その頃のいちばん実りの多い出会いは,おなじように異国の地で格闘している外国人たちです.亡命してきたポーランド人やポルトガル人,スペインの労働者やアラブのビジネスマン,ドイツ人や中国人やベトナム人の学生たち…….
 日本という枠から脱したところで翻訳を考えてみたいと思い,パリの国立図書館で資料を調べはじめたのは1986,7年だったと思いますが,そのときもそれほど明確な展望があったわけではありません.フランスにおける翻訳論・翻訳論争の古さやひろがりの大きさを知ったときは,ほんとうにびっくりしました.私の拙い筆でその感動が少しでも表現できたとすれば,これほどうれしいことはありません.

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