学術コミュニケーションの危機における学術情報電子化の状況  山本俊明(2003年9月4日)

学術出版研究部会   発表要旨 (2003年9月4日)

学術コミュニケーションの危機における学術情報電子化の状況
――アメリカ大学出版部による学術専門書オンライン化の意味

山本俊明

アメリカの大学出版部は,学術コミュニケーション・システムにおいて,学術書を出版することにより学術的価値と意義を高める機能を担ってきた。つまり,大学出版部は,著者の原稿を査読し,ゲートキーパーとして価値ある学術情報を出版してきた。また編集による価値付加により,大学出版部が出版する学術専門書の信頼を高め,大学出版部は,学術コミュニケーション・システムの中心的位置を占めてきたのである。この学術コミュニケーション・システムは,著者である研究者にとっては,第一に,「大学出版部で出版すること」が,「終身在職権」(Tenure)を得るための必要条件となり,第二に,出版されることにより,新たな研究資金を得る前提条件となった。また大学出版部で出版することは,著者の研究者としての威信を表すものともなったのである。大学出版部が発行する学術専門書は,研究図書館,著者であり購読者である研究者によって評価され,購入され,利用されることにより,学術コミュニケーション・システムの循環が成立したのである。
しかし,1990年代にこのシステムを支えてきた基盤が地殻変動を起こした。原因は,第一に,研究図書館が予算削減などにより学術専門書の購買部数を減らしたことである。第二に,大学出版部に対する補助金が削減され,大学出版部では,販売部数の少ない学術専門書を出版することが困難になった。そこで大学出版部は,1990年代に「一般読者を対象にした書籍」を発行する方向に出版方針をシフトすることになる。そのことは,研究者が大学出版部から学術専門書を出版し「終身在職権」を取得することが困難になったことを意味した。第三の原因として,インターネット環境の展開により,学術コミュニケーションのメディアが,印刷物から次第にインターネットを通じてなされるようになったことが挙げられる。90年代(大学出版部が一般読者に向けた書籍を出版しているときに),研究図書館は,学術情報の電子化に向かうインフラストラクチャーを整備し,学術情報の流通だけでなく,発信者にもなったのである。これまで,学術コミュニケーションの中心的位置を占めてきた大学出版部は,学術情報の発信者のひとつに相対化された。
2000年代に入って,大学出版部の財政状況は一段と悪化した。それは,大学出版部の経営責任者,編集担当者の解雇による人員削減などに顕著に現れている。アメリカ大学出版部協会加盟の大学に基盤を置く90の出版部の実に半数で出版方針の転換が起こっている。大学出版部はどこに向かうのか。
このような状況の中,これまでの学術コミュニケーションの担い手であった,学会,大学出版部,研究図書館が共同で「学術情報の電子化」のプロジェクトを立ち上げた。History EBookであり,Gutenberg-eなどのプロジェクトである。これらのプロジェクトにより,大学出版部が長い時間をかけて築いてきた学術コミュニケーションの中心的位置を回復できるかどうかは,電子化された学術情報が「終身在職権」の評価対象になるかに掛かっている。しかし,大学出版部にとってさらに根源的な問題は,これらの電子化プロジェクトが歴史分野,つまり人文科学分野のプロジェクトであるということなのである。これまで大学出版部は,人文科学,社会科学分野の出版者であった。これらの分野で印刷メディアの学術専門書を出版できなくなり,学術情報の電子化に向かわざるを得なくなったということである。大学出版部は,学術コミュニケーション・システムの中で,これまで培ってきた価値ある学術情報の出版者としてのアイデンティティの喪失に直面しているといえるのである。
(山本俊明)