「カッパ・ブックス」という「事件」―― 掛野剛史 (2004年10月8日)

 歴史部会   発表要旨 (2004年10月8日)

「カッパ・ブックス」という「事件」――「新書」ブームとその周辺

掛野剛史

 1954年10月に伊藤整『文学入門』,中村武志『小説 サラリーマン目白三平』の2冊をもって光文社から発刊された「カッパ・ブックス」は,1959年5月には,総発行部数が1000万部を突破するなど,それまでの書物や出版に対する固定概念を転換させた画期の書物として,企画刊行者神吉晴夫の存在と共に,戦後出版史の一頁を占めている。
 ただ,そうした画期の存在としての「カッパ・ブックス」への言及は多くなされてはいるものの,現在もなお発刊されていることもあってか,その本格的な考察や検討はほとんどなされていない。しかも,企画刊行の成功者として後に幾つもの著書に残した神吉晴夫の虚実入り混じった成功談が流布しており,その実態を見えにくくしている。
 本発表では,「カッパ・ブックス」の創刊前から創刊以降1956年12月までと時期を限定し,発表用に作成した出版目録(1954・10~1956・12)や,新聞広告などの資料に即しながら「カッパ・ブックス」の展開を具体的に跡付け,検証した。
 まず「カッパ・ブックス」創刊に到るまでの当時の出版広告の変遷を追尋し,クロスメーカーの準備が整わなかったなどの傍証からも,必ずしも十分な準備で創刊されたわけではないことを推測し,「カッパ・ブックス」が,明確な計画に基づいた創刊というより,可変的な形での創刊であったことを確認した。
 従って,神吉が繰り返し強調する「創作出版」「出版プロデューサー」というキャッチフレーズとは裏腹に,初期の「カッパ・ブックス」には既発表小説を収録したものや,光文社の既刊を「カッパ・ブックス」版としたものなどが目立ち,純粋な書下ろしは1954年では発行9点のうちわずか1点,1955年においても31点のうちわずかに3分の1程度しかない。また「カッパ・ブックス」は華々しい広告の印象が強く,神吉も当時から広告の重要性を訴えていたが,今回対象とした範囲に関していえば,他社と比較しても特別注目すべき出稿量ではないことを,「朝日新聞」紙面の調査から指摘した。
 このように初期の「カッパ・ブックス」は必ずしも神吉の言葉を十全に体現し得ていた書物ではなかった。しかしそれでも圧倒的な読者の支持を受けることに成功したのである。その要因として,本発表では,奥付記載の読者への言葉を書物の内容によって変化させる(調査の範囲でも7種類が確認できた)など,読者との連帯感を創出することに努めたこと。当時高まる読者の新書判への期待を受け止めながらも,なおかつ「新書判」としてではなく自らを「カッパ・ブックス」という新たな書物として規定したこと。当時の新書読者の実態を把握し,その把握に基づいた具体的な広告を展開したことの三点を指摘した。
 「カッパ・ブックス」は,それぞれに異なったデザインのカバーに推薦の言葉,著者写真,紹介を掲載するなど,書物の意味を増幅させることになる。また「創作出版」「出版プロデューサー」といった神吉の言葉と併せて,ベストセラーの定義を形作ることになるなど,「カッパ・ブックス」という書物は,創刊以降多岐にわたる問題を出版界に発生させる。本発表では,出発期の「カッパ・ブックス」の実態とその展開の正確な姿を測定することに努めたが,今後さらなる調査考察を進め,戦後出版史の一断面を浮かび上がらせたいと考えている。
(掛野剛史)