大型書店から見た出版の現在  福嶋 聡 (2007年7月24日)

関西部会   発表要旨 (2007年7月24日)

大型書店から見た出版の現在――『希望の書店論』を刊行して

 1997年に京都店から仙台店へと異動となり,関西を離れていた約10年間に経験したこと,考えたことから語りたい。その間,『劇場としての書店』(新評論 2002年),『希望の書店論』(人文書院 2007年)と,二冊の本を上梓させていただいた。『劇場としての書店』のあとがきや,『希望の書店論』の元となった人文書院HPのコラムで図書館について論評したことをきっかけに『ず・ぼん』(ポット出版)の座談会に出席したり,『論座』(朝日新聞社)の編集部の人たちと仲良くなり,「書店特集」や「人文書特集」の時に意見を求められたり,執筆する機会もいただいた。そんな中で,そしてもちろんそれ以上に,本業であるジュンク堂書店店頭での実践の中で改めて気付かされた「(大型)書店の役割」について述べたい。
 まずは,自著のタイトルにも使った「劇場としての書店」である。こう言うときの眼目は,あくまで主役は読者であること。書店に訪れる読者こそ,さまざまなモチベーションを背負ったドラマの主役であり,だから,ぼくは「案内人」という腕章をした黒子なのだ。
 次に,「工房としての書店」。書物は販売することによって読者の手にわたって初めて意味を持つ(商品として完結する)という意味で,随分前から「書店は出版という営為の最終段階」と主張してきたが,2000年に仙台店から異動した池袋本店では,少し違う意味での「工房としての書店」を味わった。池袋本店で行ったトークセッションのいくつかが,そのまま書籍の形で刊行されたのだ。本を通じての人と人の出会いの場であること,書き手,作り手,読み手が,(売り手を介して)集う場としての書店であることを何よりも目指すぼくとしても嬉しい経験だったが,一方でトークセッションが閉じられた円環の中で完結しないこと=安全な「共同体」に守られないこと=いつでも異質な人が入って来れること,そしてそのことこそ,書店という開放された空間(敢えて“「予定調和」のネット書店ではない空間”と言おう)の意義だということも教えられた。
 そして,「としての書店」。図書館の書棚の「古さ」を実感したのがきっかけだ。それはもちろん図書館に対する書店の優位を主張したいわけではなく,本と読者を出会わせる場としては共通している図書館と書店の役割分担を言いたいのである。委託商品の展示場である書店と,収集した資料を返したり破棄したりできない図書館では,新進の著者に対する見方について,タイムラグが生じるのは仕方がない。だからこそ,図書館関連の講演では,いつも「図書館の方々も是非書店に足を運んで下さい。そして,知らない著者の商品が書店で平積みになっていたら,遠慮なく,書店員に聞いて下さい。」と言い続けてきた。
 最後に「としての書店」“パトロニズム”という観点から見ると,再販制,定価設定の経済学の常識からみれば真逆な状況(需要が多いほど安くなる)など,出版・書店業界の特殊性が,説明できる。そこは,読者という投資家が,著者(等)に対して投資をする窓口なのだ。トークセッションを通じて仲良くなった森達也という書き手に思いをはせるごとに,そうしたイメージはリアリティを持つ。森さんは,もともとドキュメンタリー映像作家。ただ,その余りに独創的な(それゆえ魅力的な)企画が,広告収入や視聴率が絶対であるテレビの世界では,通らない。そこで取材した内容を,本にしてきた。これらが,面白い。本という媒体は,3000人位の読者が見込めれば,成立するのだ。本を買う読者は,作家に対して超小口投資家と言える。書店という空間は,そうした投資家を集める窓口だと自覚すべきではないか。
 大阪に来て,何よりも思うこと。それは大阪がこんなにも「本の街」なのに,誰もそれを自覚せず,喧伝していないことだ。大阪駅周辺には,かつての京都河原町界隈にも神田神保町にも負けないくらい,書店がある。本を求める人たちが,「とりあえず大阪に行ってみるか」というようなイメージ戦略を打ち出していきたい。「投資窓口」に「キタハマ」とルビを振ったのも,勿論そうした思いからである。
(福嶋 聡)