「雑誌出版とジェンダー:『婦人文藝』主宰者としての神近市子を中心に」石田あゆう(2023年3月4日)

■日本出版学会 出版編集研究部会 開催報告(2023年3月4日開催)

「雑誌出版とジェンダー
 :『婦人文藝』主宰者としての神近市子を中心に」
 石田あゆう(桃山学院大学社会学部教授)

 
 『婦人文藝』は1934年6月から1937年8月のおよそ3年刊行された婦人文芸誌であるが、同誌の女性メディア史における位置づけについて報告をおこなった。同誌主宰は評論家の神近市子で、その夫で同じく評論家であった鈴木厚が編集責任者を務めた。鈴木の誌面への登場はなく、「編集後記」をおよそ毎回執筆していたのは神近である。誌面からはその編集業務の多くも神近が兼任していたこともうかがえる。
 掲載原稿の執筆者の多くは女性であり、『婦人文藝』は女性の手による女性のための雑誌であったことがわかる。神近市子も同人の一人だったが、それは女性の手による女性のための雑誌『青鞜』の系譜に連なるメディアであったことを意味する。『婦人文藝』は、女性文芸誌として位置づけられるものの、『青鞜』や、同じくその系譜に連なる『女人芸術』(長谷川時雨主催)ほど多くの研究はなされていない。その要因として、『婦人文藝』が著名な女性作家を育成、輩出できなかったことに加え、編集者としての神近市子の位置づけが明確でないことがある。女性個人が主宰する文芸メディアが1930年代半ばにあって果たした機能について考察をおこなった。
 
〈『女人藝術』から『婦人文藝』へ〉

 神近の雑誌編集経験は、『青鞜』を通じて交流があった尾竹紅吉(富本一枝)と1914(大正3年)に刊行した『番紅花』(3月から8月まで)、その後、1928(昭和3年)年からの長谷川時雨主宰『女人芸術』(1932年6月まで)への協力が挙げられる。自らが雑誌出版を手がけることになったきっかけは、『女人芸術』の廃刊が大きい。
 長崎出身の彼女にとって『青鞜』や『女人芸術』は彼女の東京での人間関係に深く関わっていた。それまでのこうした女性向けの文芸雑誌は女性らのネットワークに支えられた同人誌的メディアであった。だからこそこれらの雑誌と関わりを持つ神近には、女性文芸誌の系譜を存続させることが重要であったのではないか。1934年創刊号「編集後記」には、「『女人芸術』も『火の鳥』 もない私達の世界は、大変寂しいものであつた」と記されていた。
 さらにその寂しさは「娯楽がない」ということではなく、女性らを鼓舞し、啓蒙するだけの内容を持つ活字メディアがないという嘆きを指す。ある程度の学業を修めとくに社会に出て働こうとする若い女性たちが、さらなる教育機会を雑誌に求めていた。そのため、雑誌の内容は、文芸作品の鑑賞だけではなく、教育的啓蒙的でもあった。のちに『婦人文藝』は「総合雑誌」として自らを位置づけ、「社会文芸総合雑誌」を名乗ることになる。
 
〈『婦人文藝』の教育的機能〉

 そもそも文学とは関係の無い労働に従事する者が、生活の中で作品を創作することを両立させるのはかなり困難である。『婦人文藝』は作品投稿を読者に呼びかけたが、優れた作品が常に投稿されるとはかぎらなかった。だがそのことを神近ら編集側が嘆くことははなかった。雑誌刊行を続けることで、職業婦人たちが「文学」に接点を持ち、それを利用することで得られる効果に期待していた。
 1936年9月(第3巻第9号)の「巻頭言」に、神近は相馬黒光の自伝『黙移』を読者に紹介しつつ、次のように述べている。
「世に文学を志す婦人は、多数あると思ひます。しかし、それらの全部が作家として成功して行くことが出来るかといへば、それは疑はしいと思ひます。しかし才能や環境によつて作家としての道を阻まれることがあつても、藝術なり文学なりを愛することによつて受ける利益は少しも損はれることはないと思ひます。
 即ちそれは教養の問題であり、この教養が実生活の上で人間の上に與へる影響はどんなに美しいものであるかといふことを、相馬女史の本を見乍ら考へさせられてゐたのでした。」
 家庭を持ち新宿中村屋を切り盛りしながら、芸術的素養を失わない黒光の自伝が、働く女性の一つのロールモデルとなりうることを、神近は示唆した。だが伸張していく総合雑誌編集を個人主宰でおこなうには限界が来ていたようである。折しも、1937年1月に実業之日本社から新女性誌『新女苑』が刊行された。同誌は『婦人文藝』との競合誌だった。
 
〈まとめ〉

 『新女苑』は戦時下の新聞の整理統合にあっても刊行され、1959年7月まで続いた女性のための「文藝雑誌」であった。新雑誌が登場するなか、『婦人文藝』は突如予告も無く1937年8月に第4巻第8号をもって終刊した。一方で、神近はこの若い女性のための文芸誌である『新女苑』に寄稿する女性執筆者の一人となっている。読者層の重なりと、神近市子の『新女苑』での言論をみるにあたり、これまでの女性のための文芸誌という雑誌メディアの系譜をそこに見出すことが可能であろう。
(文責:石田あゆう)
 
日時:3月4日(土)14:30-16:00
会場:オンライン開催(ZOOM)
参加者:参加登録22名、当日参加16名(うち会員10名)
 
 なお質疑応答では、『婦人文藝』『新女苑』の出版規模などをもとに『婦人文藝』の婦人雑誌の中における位置づけや、吉屋信子などの「文芸」編集や神近の編集者像について意見交換がなされ、よりテーマを深めることとなった。
(文責:中村健)