「日本の文庫と『実業之日本社文庫』」
-脇役から主役へ、文庫の現状と近未来-
本が売れない時代。その中でも文庫は堅実なマーケットとして産業基盤を支え、多くの読者を獲得しています。創刊から、2年で「100冊」を超える実業之日本社文庫を手がけてこられた岩野裕一さん(日本出版学会会員)に、いまや脇役から主役へ躍り出た「文庫」の現状と近未来をご報告いただきました。
■ 岩野裕一さんの講演骨子
私は、中堅の総合出版社である実業之日本社に入社以来、編集者として四半世紀を過ごしてきた。旅行ガイドブック、経済誌、一般書などの編集を経験する中で、近年は、増田義和社長(現会長)の深い理解のもと、勤務のかたわら母校である上智大学の大学院に籍を置いてジャーナリズム全般を学び直す機会に恵まれた。
そうしたさなかの2010 年夏、その年10 月に創刊が決まっていた「実業之日本社文庫」の立ち上げに急遽かかわることになり、業界全体を見渡しても1980 年代を最後に久しく途絶えていた文芸文庫の創刊という、きわめて貴重な体験をすることができたのである。そこで感じたことを一言でいえば、文庫はいまや出版界の花形であるにもかかわらず、業界内ではいまだに継子扱いされている、ということだった。
さらに、文庫や文芸書の編集業務に加えて、電子化時代に対応するためのライツ管理業務も兼務したことで、著作権や契約に関する知識や関心が深まったことも問題意識を大いに高めるきっかけとなった。
日本人の読書生活やわが国の出版産業を考える場合、文庫というものはきわめて大きな比重を占めており、このジャンルを無視することはできないはずである。
ころが、日本の出版界を概観するのに欠かせない『出版年鑑』には、1946年以来の戦後ベストセラー・リストが掲載されているが、文庫本の掲載基準は不明瞭であり、その実態を正確に反映しているとはどうしても思えないのだ。
たとえば2006 年に上中下巻合計で800 万部を売ったはずのダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』が3位なのはまだしも、2010 年4月の文庫化から2ヵ月で200 万部を記録したはずの湊かなえの『告白』は、ランクインすらしていない。取次が毎年発表するベストセラー・リストからも長らく文庫は除外されてきたが(2011 年からトーハンのみ公表)、これはいったいなぜなのだろうか。
また、90 年代半ばから衰退の一途をたどってきたわが国の出版界は、電子書籍という新たな読書フォーマットの出現とその市場拡大に、大きな希望を託しているように見える。そのプロセスのなかで、「紙か電子か」、あるいは「紙も電子も」という議論は盛んに行われてきたが、電子書籍の普及を読書フォーマットの問題としてとらえるならば、これまで読書家から親しまれ、日本の出版界を特長づけてきた最強の読書フォーマットが「文庫本」言えるのではないだろうか。
実業之日本社文庫の創刊ラインナップにおいては、「いきなり文庫」と銘打った東野圭吾氏の『白銀ジャック』が、発売からわずか1ヵ月あまりで100 万部を突破して大きな話題となった。これは、雑誌に連載された作品をいったん単行本にしてから文庫化するという従来の流れではなく、単行本を飛ばして文庫化するもので、その後「いきなり文庫」は他社の文庫にも波及して、いまや文庫出版の目玉になりつつある。さらに、『白銀ジャック』は文庫刊行から1年あまりを経た2011 年11 月にハードカバーで単行本化されるという逆の順序をたどっただけでなく、同年10 月には講談社が京極夏彦の新刊『ルー= ガルー2 』を単行本・ノベルス・文庫・電子書籍の4形態で同時に発売するなど、電子書籍時代の到来で出版界が大きく揺れ動く中で、長らく続いてきた文庫という出版形態もまたダイナミックに変容しつつある。
しかしながら、単行本を経ずに当初から文庫で刊行された「文庫書き下ろし」や「いきなり文庫」の作品については、ルールが明文化されているかどうかは別にして、芥川賞や直木賞に代表される文学賞の選考対象から実質的に外されてしまう場合が多いし、取次各社が集計してメディアに発表する年間ベストセラーランキングからも、長らく文庫は除外されてきた。
業界全体の中で、たくさんの「文庫」が出されているが、実業之日本社文庫は、2年間で、やっと100点あまり出版することができただけである。シエアーでみれば、点数的に見ても、売上げ規模で見ても、わずか「0.5%」程度である。2011年のデータで見ると、書籍全体の売上げが8199億円、文庫の売上げが1319億円、新刊8010点(構成比16.1%)程度で、文庫市場は下げ止まっているともいえる。その下げ止まりを支えているのが「ライトノベル」といわれる文庫のジャンルで約300億円に達している。
文庫市場の課題として挙げられるのは、「権利処理の迅速化」と新たなビジネスモデルとしての「電子書籍化」であるといえる。業界全体として、やっと重い腰を上げて、「出版者の権利(=著作隣接権)」の確立に、いま、取り組み始めたところであるが、その知識やスキルを早急に学ぶ必要があるといえる。
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岩野裕一さんには、2009年11月の「出版編集部会」にもご報告いただいたが、その折は、実業之日本社の『少女の友 創刊100周年記念号 明治・大正・昭和ベストセレクション』が3万部を超える好調な売れ行きを見せ話題を呼んでいた時期であった。それから3年、今回は「文庫の世界」をご報告いただいた。とにかくエネルギッシュな編集者である。なお、岩野さんの新刊書「文庫はなぜ読まれるのか」が出版メディアパルから刊行されている。
参加者16名、うち講師・会員13名、一般参加者3名(会場:日本大学法学部本館2階第2会議室)。
文責:出版編集研究部会)