南涯安春根先生と国際出版研究 箕輪成男 (会報122号 2008年10月)

■  南涯安春根先生と国際出版研究  (会報122号 2008年10月)

  箕輪成男

 南涯安春根先生は解放の後,韓国の出版復興の過程において乙酉学術出版社の編集者として数々の画期的出版企画を実現され,名編集者としての令名を恣しいままにされた後,出版現場から引退され,出版と図書に関する著作と研究に従事された.
 1969 年に韓国出版学会を創立され,初代会長に任じ,以後20 年間にわたって韓国における出版研究を指導されると共に,30 点に及ぶ著書を著され,韓国出版研究の権威として,不動の名声を確立された.
 1974 年以来,安先生と相識るに至った筆者は,これまでに安先生の学問について,また御著作について,2 つの論考にまとめて報告したから繰り返しを避け,ここでは国際的出版研究活動における先生の御貢献を中心に記し,このたびの第13 回国際出版研究フォーラムと,第3 回南涯出版著述賞授与の意義を明らかにしたいと考える.
 すべての学問がそうであるように,出版学の世界もまた各国各地域ごとに,それぞれに普遍と特殊の両面をそなえている.著者と読者を結ぶ回路としての書籍を作り,流通させる出版の作業は,基本的な部分で国境を越えた文明としての普遍性をもつと同時に,各社会の歴史と環境を反映した特殊文化的な過程でもあるのである.
 私たちが1984 年以来12 回の国際出版研究フォーラムを,東アジア3 国を中心に組織してきたのは,そうした出版学の普遍と特殊を探るひとつの努力であったといってよいだろう.この国際フォーラムを最初に提唱されたのが安春根先生であった.
 1972 年のユネスコ国際図書年記念行事の一環として,同年秋東京で催された第1 回アジア太平洋地域大学出版部会議につづく第2 回の会が,1974 年9 月にソウルで催された.その会場でブレークの時に流暢な日本語で,大変親しげな感じで話しかけられたのが安先生であった.その後ソウルで,また東京で何回か安先生とお会いする機会があったが,1983 年ソウルでお会いした時に,安先生から韓日二国で国際研究集会をやりましょうという御提案があった.出版研究を一国内で閉鎖的に行うことに限界を感じていた筆者は,これはぜひ実現しようと,帰国後日本出版学会の理事会に諮った.当時は韓国の政情に違和感を抱く会員も多かったが,清水会長の鶴の一声で参加実行と決まった.
 日本から15 人が参加したこのはじめての国際研究集会で,我々は共有する諸問題について,深い議論を取交すまでには至らなかったものの,少なくとも我々が共通の問題を抱き,そこには普遍と特殊の両面があって,そのいずれにおいても,比較の方法によって,出版に関する認識を深めることができるだろうことを実感したのであった.
 東京で催された第4 回フォーラムは,その路線をさらに一歩進め,アジアと欧米の出版研究において,普遍と特殊の共通の議論が成り立つだろうかという模索であった.10 か国12 国際機関からの参加者を得たこのフォーラムは,ともあれ東洋と西洋が出版研究という共通の問題について考え,議論する,歴史上はじめての機会となった.少なくとも東西2 つの地域に,出版研究という共通の領域に挑戦する人々が存在すること,彼らの挑戦する主要問題について,共通の認識を持てたのではなかったかと思われる.
 筆者はこの第4 回を契機に,安先生の創始されたこの国際的行事が,世界的な拡がりにおいて推進されることを期待したが,とりわけ言語の問題が大きく,その後ふたたびこの規模で催されることはなかった.安先生がこうした進展をどう受けとめられたかはわからない.出版学と書誌学の境界領域に取り組んでおられた安先生にとって,欧米出版研究との接触は時期尚早であったかもしれない.次の第5 回国際フォーラムは91 年ソウルで催されたが,ふたたびアジア中心であった.
 ところが安先生が韓国出版学会会長として会を主宰されるのは,この第5 回が最後となった.93 年1 月,先生は全く忽然として幽明境を異にされたからである.せっかくこのフォーラムが軌道に乗り,回を追うごとに前進,飛躍を重ねて来はじめた時に,このフォーラムのシンボルともいうべき創始者安先生を失ったことは,我々すべての出版研究者にとって大きな打撃であった.
 しかし安先生の撒かれた種子は,その後も成長を続けた.第6 回は北京で,第7回はマニラで,さらに第9 回は99 年にクアラルンプールで,とアジア近隣諸国に出版研究が浸透しはじめたのだ.

 そのような発展が積上げられてきた中で,ふたたびソウルで催される今回の第13 回フォーラムは,極めて大きな意義を持っている.紙メディアからデジタルメディアへの転換という,人類史上最大のメディア転換を迎えているからである.しかも今回のメディア転換は全地球規模で一斉にはじまり,しかもその展開速度が急速である点で,想像を絶する異常経験であろうとしている.我々の研究対象である出版物にとって,その存否を分つこの激変に,全世界の出版人がとまどい,憂え,恐れている今こそ,出版研究者の果たすべき責任は極めて重大である.今回のフォーラムを通して,デジタル転換についてのよりよき理解と有効な対策が見出されることを願ってやまない.
 さて今回のフォーラムを機に,かねて設置されている南涯出版著作賞の第3 回授与が行われることもまた記念すべき出来事である.
 同賞は安春根先生の甚大な御功績を記念し出版研究に関する著作を勧奨するために2001 年にソウルに設けられた国際授賞基金である.人類最古といわれる金属活字による出版の歴史伝統を誇る韓国にふさわしい「出版研究におけるノーベル賞」である.
 安先生の遺された仕事を営々として引きついでこられた尹炯斗先生をはじめとする諸氏の御努力によって,安先生の撒かれた種子がますます多様な形で発展しつつあるのは嬉しい.安先生の老朋友として,永らくその友誼を得てきた筆者の,安先生への愛慕の情ますます強いものを覚える.

(元・日本出版学会会長)
(韓国出版学会の求めに応じ「フォーラム」に寄せた筆者の挨拶文の日本語原文)

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