第36回日本出版学会賞 (2014年度)

第36回 日本出版学会賞審査報告

 第36回日本出版学会賞の審査は,「出版の調査・研究の領域」における著書および論文を対象に,「日本出版学会賞要綱」および「日本出版学会賞審査細則」に基づいて行われた。今回は2014年1月1日から同年12月31日までに刊行・発表された著作を対象に審査を行った。審査委員会は2月16日,3月16日の2回,開催された。審査は,出版学会会員からの自薦他薦の候補作と古山悟由会員が作成した出版関係の著作および論文のリストに基づき審査を行った。その結果,日本出版学会賞1点,奨励賞1点を決定した。


【日本出版学会賞】

 永井一彰 著
 『板木は語る』(笠間書院)

[審査結果]
 本書は,20年以上にわたり膨大な板木を実見してきた著者による板木に関する論考を集成したもので,書中には多くの新知見が示されている。近世は,出版が商業活動として確立した時期であるが,これまで書物を製作する板木についての研究蓄積はきわめて希薄であった。著者は板木の学術的意義について,「板木には近世出版現場の情報が非常に生々しい形で残っている」と述べているが,それを実証する具体的な事例が本書には満ち満ちている。板木,版本,版元の記録・文書などを突き合わせることによって,その書物の初刊からその後の変転を解明する手つきは,見事の一語につきる。
 本書は,以下に示すように6部から成る。第一部・板木の意義,第二部・「おくの細道」の板木,第三部・「芭蕉」という利権,第四部・入木,第五部・版権移動・海賊版・分割所有,第六部・板木は語る。
 とりわけ芭蕉の著作をめぐる近世版元の動きを克明に追究した第三部「芭蕉」という利権,第五部・版権移動・海賊版・分割所有は,研究書ながらスリリングで強い興奮を覚える。学術研究として見事な成果といえよう。
 また,入木(いれき)について論じる第四部では,これまで考えられていたのとは異なる入木の役割,技術的効率など具体例を挙げて明らかにされる。従来,版本に頼らざるを得ないこともあって,入木の実態は明らかでなかったという。それを一万枚に近い板木を精査することにより,研究上不明であった入木の実態を解明したことも,本書の大きな功績といえよう。
 以上のことから,本書が近世の出版に関する立派な学術的貢献であることは明らかで,日本出版学会賞に値するものと判断した。

[受賞の言葉]
永井一彰

 このたび伝統ある賞を授与されたこと,身に余る光栄で,感謝の一語に尽きる。日記を繰ってみると,笠間書院の岡田圭介氏から『板木図鑑』を出さないかという打診があったのは平成24年6月18日のことである。7月9日に研究室で初めてお目にかかった折に「望むところであるが,その前にこれを纏めておきたい。」と提示した我侭な企画が本著『板木は語る』であった。本著は筆者が平成12年から26年までの間に書き溜めて来た板木関係の論文を集成したものである。扱っているのは近世期の京都で商業出版に使用されて来た板木で,竹苞楼旧蔵の約2,400枚,藤井文政堂現蔵・旧蔵の約1,000枚などが考察の対象となっている。本著の中でも繰り返し,また「あとがき」にも記したことではあるが,20年近く関わって来てつくづくと思うのは,板木には近世出版現場の生々しい痕跡が残っている,ということであった。それは,板木の仕立て方であったり,丁の収め方であったり,相版の際の板木の分け方であったり,板木再利用の有様であったり,入木のやり方であったりするのだが,それらは近世の本屋や出版に携った職人たちが何を考え何をして来たかを私たちにストレートに語ってくれるもので,従来の出版研究がベースとして来た「版本」からは絶対に見えて来ない情報である。それらの情報を手にして版本に臨んだ時,近世の出版について新たな視点を持つことが可能となるに違いないという思いが筆者を支えて来た。昨年度本学会の奨励賞を与えられた金子貴昭氏の『近世出版の板木研究』は刊行一年余で重版に及んだと聞く。本著も版元から初版在庫切れという連絡をつい先達て受けたところである。それに先行しこの日本出版学会賞を授与されることになったのは,板木に目をつぶったまま近世の出版を語ることは出来ないということが研究者の間に共通認識として拡がりつつあることを示すもので,何よりも喜ばしい。いま,宿題の『板木図鑑』(仮題)を編纂すべく板木の再点検に取り掛かっているのだが,改めて板木をじっくりとながめていると,見落として来たことの多さに驚かされる。本屋のささやかな欲望,彫職人の溜息,摺職人の倦怠,そういった人間臭さを,次の著書ではさらに丹念に拾い出してみたいと思っている。

 


【奨励賞】

 牧 義之 著
 『伏字の文化史』(森話社)

[審査結果]
 本書は伏字という編集手法に着目,文化記号論的な観点から,近代日本の文学作品におけるテクスト生成と受容の過程にアプローチした研究書である。すなわちその目的は「本来のテクスト」の救済ではなく,「新たなテクスト」としての伏字の発生と,そこにかかわる原著者,出版・印刷者,検閲官,読者の営為を描きだすことに置かれている。
 序章および第一章の先行研究,伏字パターンの整理は,テーマのインデックスとしても有用な水準である。第二章以降は事例研究になるが,とくに第四章から第六章にかけて,内閲のプロセスにおける係官,出版者,作家との関係変化や,伏字技術の向上,永井荷風・三島由紀夫らによる戦略としての伏字,それをさらに焦点化した森田草平『輪廻』の差別表現問題あたりまでの分析は切れ味鋭く,まとまった業績として評価できる。また異版や改版を扱う態度として,出版研究全般に寄与するものも少なくない。
 ただし審査においては,第三章「法外便宜的措置としての内閲② 萩原朔太郎『月に吠える』の内閲と削除」に関する川島幸希氏の指摘(『日本古書通信』2015年2月号掲載)が問題となった。この章で牧氏は,国会図書館所蔵の内交本調査から,『月に吠える』の内閲実施と納本日に関する新説をたてている。対する川島氏の指摘は,納本日にかかわる公刊文献(同書の装幀者である恩地孝四郎の日記に関する記述)を参照しておらず,したがって内閲説もあやういとするもので,ほかにも二箇所の記述に疑問があると述べている。
 川島氏の指摘はいずれも相応の妥当性があり,著者は正しく受け止めて再検証する必要があろう。しかしながら本書の評価においては,この第三章のみが中心的なテーマからはずれていること,研究そのものは意欲的で基礎研究としての価値も高く,将来性が期待できるとの判断から,奨励賞を授与することとした。

[受賞のことば]
牧 義之

 2012年に提出した博士論文をまとめ直した『伏字の文化史 検閲・文学・出版』は,私にとって初めての単著です。2009年度に浅岡邦雄氏が第31回日本出版学会賞を受賞された際,その表彰式で初めて森話社の西村篤さんに出会いました。式後の会食で,「いつかご一緒に仕事ができたら良いですね」と話したことを,よく覚えています。まさかその時は,本当に自分が1冊の本を書くとは思ってもみませんでしたが,幸運なことに機会に恵まれ,単著を森話社さんから刊行していただくことになりました。
 引用文を全て見直し,文章の不備を正し,図版を一から撮り直す修正作業は,なかなか辛い経験でした。西村さんから校正のアドバイスを頂く過程で,自分では気がつけなかった間違いを指摘されたりと,研究者としての姿勢を反省することもしばしばでした。西村さんは常に,制作物の良き理解者であり,批判者であり,精読者でいてくれました。執筆者にとって,生み出そうとしているものの味方になってくれる編集者に出会えたことは,とても幸せなことだと思います。
 最も悩んだのは,本のタイトルでした。内容に忠実でありながらインパクトも持たせたい,しかし,興味本位だけで手に取られるような題にはしたくない。主題と副題のバランスを考えながら,いくつもの候補を縦横に紙へ書き出し,考え抜いた末がこの題でした。当初はこれで良かったのかと,随分気を揉みましたが,今はとても気に入っています。おそらくは,時間の経過とともに題が私の志向に合うようになってきた,ということでしょう。
 表紙のデザインは西村さんですが,下地として置かれた伏字文章のモザイクは,私が作ったものです。どこかで活用して下さったら,と西村さんに渡したものですが,全面的に使ってくださり,デザイン案を見た時には大変嬉しく思いました。温かみのある色遣いが特色といえる森話社の刊行物としては,やや異色な大胆さをもった表紙です。固いばかりの内容に,的確な風味付けをしてくれたと思います。
 結果的に愛着を持ちながら産み出すことができた拙著が,今回「奨励賞」を頂きました。浅岡氏を始めとした諸先生方のご指導,拙著に対するご高評を感謝しますとともに,今後ますます研究に精進したいと考えます。