《基調講演》「文藝春秋のこれまでとこれから」飯窪成幸(2023年5月13日開催)

《基調講演》
 文藝春秋のこれまでとこれから

 飯窪成幸(文藝春秋)

 
 「私は頼まれて物を云うことに飽いた。自分で、考えていることを読者や編集者に気兼なしに、自由な心持で云って見たい」。菊池寛はこの想いを実現すべく『文藝春秋』を1923年(大正12)1月に創刊した。それから100年。この節目に文藝春秋の「これまでとこれから」について、代表取締役社長の飯窪成幸氏(講演当時:専務取締役)に基調講演を依頼した。その内容を要約して紹介する。

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 出版を研究対象とする皆さんの前でお話しするのでいささか緊張しています。あらためて文藝春秋七十年史(半藤一利さん執筆)など関連の本、とくに私よりはるかに文藝春秋に詳しい評論家の坪内祐三さんの著作を読み返してきました。そのうえで今日は創業者・菊池寛と中興の祖・佐佐木茂索のことを中心にお話ししたいと思います。というのもこの二人の個性が今なお社のあり方、編集スピリットに大きく影響を与えていると考えるからです。
 その個性とは何なのか。まず菊池寛です。菊池寛は大流行作家であると同時に天才編集者でもありました。そして相当に変わった人物でもありました。和服の帯がほどけかけたままでも気にせず、社内を闊歩しているような人でした。高松から東京へでてきて高校、大学の中退をくりかえし最後は京都大学を卒業しました。「時事新報」の記者などをしながら小説家になり、やがて『真珠夫人』という大通俗小説を書いて一躍、人気作家になります。そして冒頭にあるように自前の雑誌を創刊しよう、と思い立ったわけです。

合理主義者としての菊池寛
 まだ無名の時代、菊池寛は仲のよかった芥川龍之介、そしてその頃は作家の卵の小島政二郎と下戸同士で食べ歩いていました。東京生まれの小島を案内人にしていたようです。『眼中の人』という小島が菊池、芥川との交流を描いた作品があります。中に若き菊池寛を象徴するエピソードがあります。ある店でのことです。食べ終えた菊池寛は50銭玉3枚、計1円50銭をチップとして置いた。一人頭50銭で1円50銭というのが菊池の理屈です。当時の東京ではチップに端数を置く習慣はなく、芥川と小島が「菊池、そんなチップの出し方は恥ずかしい」と諭しても、「いや、1円じゃ少ないし、かといって2円ほどのサービスは受けてない」と頑として譲らなかったそうです。若いときからお金に苦労してきた菊池流の合理精神、あるいはリアリズムともいえます。東京っ子でミエっぱりな自分を反省しながら、小島は菊池の「強さ」に驚嘆しています。
 雑誌といっても創刊当初の『文藝春秋』は文藝同人誌にすぎません。菊池寛の自宅に若い作家や作家志望の仲間を集めてつくったリトルマガジンでした。川端康成、横光利一、今東光、佐々木味津三など、のちのビッグネームが同人として連ねてありますが、菊池より一世代若い24~25歳の若者たちが中心です。創刊号は本文わずか28ページ、定価は10銭、部数3000部。『中央公論』や『改造』などの大雑誌と比ぶるべくもない、ページ数は数十分の一、定価も7分の1から10分の1の安価なものです。タバコはいまやかなり高価な嗜好品ですが、ゴールデンバットなど当時の大衆タバコの値段を基準にしたともいわれます。
 盟友、芥川龍之介の「侏儒の言葉」の連載はあるものの、創刊からしばらくは作家のゴシップ記事が売り物でした。坪内さんは、「文壇・噂の真相といえば一番わかりやすいのでは」とよく言っていました。菊池寛はこのことでずいぶん非難もされたようです。ゴシップ記事を手放しで礼賛するわけではありませんが、タブーを恐れない、日本的な人間関係にからみとられない雑誌づくりの精神は、その後の文藝春秋にも生きていると思います。
 その象徴が、『文藝春秋』1974年(昭和49)11月特別号に掲載された「田中角栄研究」ではないでしょうか。田中研究といえば立花隆さんの記事(「田中角栄研究 その金脈と人脈」)が金字塔ですが、あの号にはもう一本、児玉隆也さんの「淋しき越山会の女王」が掲載されています。二本あわせて「田中政権を問い直す」という特集です。この特集がきっかけになって、「今太閤」とまでいわれた田中総理は辞任に追い込まれます。編集長・田中健五さんは「編集だより」で「政治に金をかけるな、などと中学生的正義感をふりかざすのではない。そもそも金権政治とは何なのか、この際とくと知っておきたいのである。(略)正義感からではなく好奇心から発した企画である。新聞その他のマスコミが教えてくれないから本誌が企画するのである」と書いています。このジャーナリズム精神=面白がり精神は、菊池寛スピリットとつながっているはずです。

「六分の慰楽、四分の学芸」の雑誌作り
 スタート時には小さな文藝雑誌だった『文藝春秋』は、読者数とページ数を次第に増やし、昭和に入ると総合雑誌へモデルチェンジしていきます。著名人を囲んでの大座談会が売り物で、座談会は菊池寛の発明品ともいわれています。欧米の雑誌に座談会はないのではないでしょうか。1926年(昭和2)年新年号と2月号の広告キャッチコピーは、「六分の慰楽四分の学藝、これ文藝春秋のモットーです」。そして「自分の心にムリをしてまで、難解の論文などの多い雑誌を読む必要はないでせう」ともあります。この本音主義も貴重な財産です。

佐佐木茂索がいたから100年企業になれた
 菊池寛は天才でしたが中興の祖・佐佐木茂索がいなければ、文藝春秋は100年も続く出版社にはなれなかったと思います。敗戦の失意から菊池は文藝春秋の解散を決意します。戦地から帰ってきた若い社員たちに乞われた佐佐木は、資本金50万円の半分を出資し文藝春秋新社を興します。戦後の文藝春秋が軌道にのったあと、いまでいう「創業者利益」を独占することもできたでしょうに、そうしませんでした。社員に株を公開し、いまもつづく社員持ち株制度の礎をつくります。佐佐木もまた人生経験ゆたかな苦労人でした。家は裕福な商人でしたが破産したため、高等小学校を出ると朝鮮にわたり、仁川の香港上海銀行で働いた時期もあります。新進気鋭の作家になりますが菊池に頼まれて入社します。
 変わった人という点では佐佐木も菊池に負けません。後年、多くの社員の反対を押しきって『週刊文春』を創刊したとき、月給を週給制度にかえます。社運をかけて週刊誌を創刊するのだから、生活リズムも週単位にしようというわけです。ところが週末までに給料を使い切る社員が続出し、この制度は数年で中止になったといいます。菊池さんと佐々木さんが今生きていて、二人をあわせると、人情味のあるイーロン・マスクみたいな経営者ができるのではないか、と私は夢想します。

文春の原点はこれからも変わらない
 戦後しばらく用紙の配給制限に苦しんだ『文藝春秋』が(用紙割当委員会の配給は『世界』や『中央公論』の半分か三分の一だったそうです)ブレークするきっかけは、菊池以来の天才編集長・池島信平が企画した「天皇陛下大いに笑ふ」(1949年6月号)であることは伝説になっています。この頃、論壇では昭和天皇の戦争責任論がさかんに言われていました。ところがこの特集のスタンスはちがいます。御前放談会に出席したサトウ・ハチロー、辰野隆、徳川夢声の人気執筆者三人が、自分が見た「人間・昭和天皇」について語るもの。くわえて同号とこの前の号に「日本を震撼させた四日間」という記事があります。2・26事件にかかわった青年将校の手記です。社の大先輩である半藤一利さんは「『天皇陛下大いに笑ふ』は有名だけど、本誌が爆発的に売れたのはこの連載も大きいんだよ」と言われていました。当時、皇室もそうですが軍人の手記は、総合雑誌のテーマとしてはタブーだったということです。知識層からすれば反時代的かもしれませんが、サイレント・マジョリティの心をぐっとつかんだのだと思います。
 この編集姿勢は今もそしてこれからも変わりません。
 「田中金脈」の『文藝春秋』が出たとき、『朝日新聞』の「天声人語」を除いて、どこのメディアも取り上げませんでした。外国人記者クラブで行われた講演で、田中総理が質問されたことから火がついたことは今ではよく知られています。ジャニー喜多川氏の性虐待問題も同じ構造です。BBCの放送があってようやく他のメディアがとりあげました。日本のメディア状況はさして変わっていないのかもしれません。
 しかしだからこそ、雑誌を原点とするわれわれには、それが紙であれ電子であれ、果たすべき役割があるのではないかと思っています。