大衆文学の転換―大佛次郎「ごろつき船」を中心に(昭和3,4年の夕刊小説)  中村 健 (2008年11月 秋季研究発表会)

■ 大衆文学の転換―大佛次郎「ごろつき船」を中心に (昭和3,4年の夕刊小説)
(2008年11月 秋季研究発表会  )
 


中村 健

大衆文学の歴史は昭和初年から順調に発達してきたように言われているが,経年で見るといくつもの変化が存在している。そのひとつが昭和3年から4年にかけての大阪朝日新聞(以下大朝)・大阪毎日新聞(以下大毎)夕刊の連載小説紙面から確認できる。特に大朝は,土師清二「砂絵呪縛」までの盛況ぶりとうって変わり,下村悦夫「愛憎乱麻」,続く国枝史郎「娘煙術師」が打切,講談「松平長七郎」で講談が復活するなど混迷振りが目立つ。
一方,大毎は大佛次郎「ごろつき船」で評価は非常に高いが,前作の林不忘「新版大岡政談」のように映画化や舞台化され広告紙面が盛り上がることはなかった。本発表では,大佛次郎「ごろつき船」を中心に,その変化の理由を探った。
「ごろつき船」の連載期間中に目が付くのが,大佛次郎の文名を高めた「赤穂浪士」(改造社)の図書広告だ。「赤穂浪士」は「東京日日新聞」に連載され,大衆性と芸術性を兼ね備えた作品として連載時から高い評価を得た。
「ごろつき船」の連載と改造社の「赤穂浪士」広告の関係は以下のように推測できる。「ごろつき船」は伝奇時代小説風の復讐劇としてスタート。正義派の武士や商人が次々と弾圧されるという「暗い」展開が続く。この展開には,経済不況の続く当時の社会状況と結びつけで読解することも可能であった。そうしたなか,秋頃から,「赤穂浪士」の広告が次々と載る。広告から,「赤穂浪士」がベストセラーであり大衆文学としてはかつてない高級な内容をもった小説であることが読み取れる。この広告により,新聞読者に名作「赤穂浪士」の作者が書く「ごろつき船」というイメージが生まれ,「ごろつき船」に注目が集まる背景を作ったのではないだろうか。
さらに「赤穂浪士」は澤田正二郎により新国劇で上演されていたが,澤田正二郎が急死するという事件が起こった。「赤穂浪士」はここで再び注目。それが終わるころ「ごろつき船」の展開は作者の本領である革命ロマンへとシフトをしていく。
また「ごろつき船」は「赤穂浪士」と同じ改造社から刊行され広告でも並んで掲載された。「赤穂浪士」の成功で「大佛次郎」という作家ブランドが確立される中で,「ごろつき船」の評判も作られたと見ることが出来ないだろうか。
当初,伝奇時代小説の衣をまとっていた本作であるが,終盤には革命ロマンの色彩を帯び社会思想を備えた時代小説と変化する。過渡的状況に合わせた内容の変化は技法的な特徴と見える。
次に思想性の表現を考えてみたい。昭和4年の初め『平凡』『朝日』が『キング』に対抗するため創刊されたが,部数的には失敗した。その理由を内海幽水(新聞の表記は幽水生)「雑誌の将来」(「大朝」昭和4年1月8日付)は「講談雑誌に評論雑誌の匂いを持たせて,成ろうことなら婦人雑誌の特色の幾分を加味したい,というのが新刊の「平凡」や「朝日」のねらいどころであるが,さてでき上がったものはどうだろうか」として,「朝日」や「平凡」について分析している。この記事で注目したいのは,内海氏がこの時期のニーズの一つを述べている点だ。先の引用部分から雑誌という語を抜いてみよう。「講談に評論の匂いをもたせる」。それは,「ごろつき船」や,大佛次郎・吉川英治が昭和4年から発表する,作家の歴史観や思想性などを折り込んだ作品傾向と相似する。
この頃の紙面にもうひとつの萌芽が見つけられる。夕刊の一面に短期間連載され,好評を博した邦枝完二「東洲斎写楽」(大朝昭和3年8月26日~10月10日)と村松梢風「綾衣絵巻」(大毎昭和3年9月9日~12月2日)で,「事実小説」「情話」と呼ばれる伝記的な歴史小説の登場だ。
以上から,それまで時代伝奇小説が主で,映画化などでメディアミックスを行なってきた大衆文学に,昭和3年から4年にかけて変化が起こり,以下の四点の新たな傾向が生じたことが考えられる。
(1)作家によってはトレンドの変化にあわせて作品を仕上げることが可能であり,変化についていけるものといけないものに分かれてきた。
(2)流行の傾向や名作を次々にものにすることで作家のブランドが確立される時期になった。
(3)伝記など事実を重視した歴史小説が登場した。
(4)社会意識を盛り込んだ歴史小説が登場した。
なお発表後の質疑では,メディアミックスについての発表者の考えを聞かせて欲しい,この変化は転換というには弱いのではないか? この時期の作品評価と読者の評判の関係性を明らかにしてほしい,などの意見が出た。


(初出誌:『出版学会・会報123号』2009年1月)