「海を渡った女性記者・加納ユカシに関する考察」下岡友加(2021年12月4日、秋季研究発表会)

海を渡った女性記者・加納ユカシに関する考察
――『台湾愛国婦人』時代を中心に

 下岡友加
 (広島大学)

 
はじめに
 加納ユカシ(筆名:幽閑子、ゆかし女)は、1909年1月~1913年7月まで愛国婦人会台湾支部事務員(後嘱託)として雇用された記者である。彼女には台湾へ渡る以前の1906年から1935年まで複数の媒体への寄稿が確認され、明治生まれの女性としてはかなり息の長い執筆活動を行った書き手と言える。本発表では特に『台湾愛国婦人』(愛国婦人会台湾支部機関誌、1908.10~1916.3刊行)時代の彼女の活動について報告した。
 
1.文芸創作について
 現在確認できる『台湾愛国婦人』へのユカシの最初の寄稿は、少女小説「由美子」(第9巻~第15巻、1909.8~1910.2)である。東京の裕福な家庭で育った少女・山川由美子は父の事業失敗により、母の里である京都近郊の家へ預けられる。ここでは少女が味わう零落の悲哀が描かれるとともに、彼女の賢さゆえに報われる未来が暗示されており、明治期の典型的な「少女不幸物語」「教訓物語」(菅聡子『〈少女小説〉ワンダーランド――明治から平成まで』明治書院、2008)と言える。ユカシはまだ文芸作品の乏しかった初期の誌上において、穏当な読み物を読者に提供している。
 続いて、ユカシの小説「女教師」(第35巻~第49巻、1911.10~1912.12)の主人公は尋常小学校の新米教師・森静子である。身に覚えのない艶聞を新聞に投書された静子は学校を辞め、商家の住み込み家庭教師に転じる。この小説の読みどころは教師生活の具体を語っている点にあり、同時代の『青鞜』における女性教師表象にも共通する「苦悩」(米村みゆき「〈女教師〉という想像力――『青鞜』を醸成する〈ローカル・インテリ〉」飯田祐子編著『『青鞜』という場――文学・ジェンダー・〈新しい女〉』森話社、2002)が描かれていると言える。
 その他、第14巻(1910.1)の附録小説「春の家」には「昨年の九月頃に自ら仕願して警察官吏と成り、当時討伐隊に交ぢツて征蕃の為めに働いてゐた」人物が登場する。この人物設定は台湾総督府「理蕃」政策の後援を行う愛国婦人会台湾支部の役割を踏まえたものであり、いち早く会(雑誌)の趣旨を踏まえた小説を執筆したユカシの対応力には一目置くべきものがある。
 
2.台湾における見聞記
 ユカシは多くの台湾見聞記も書いた。第一尋常高等小学校(「台北の三小学校」第16巻~第18巻、1910.3~5)をはじめとして、新起街市場、淡水戯館、林本源家、台北医院、北投温泉、基隆埠頭など各所へ訪問したユカシの記事からは、彼女の価値観とその変化を見ることができる。たとえば渡台後、初めて台湾で新年を迎えた彼女の記事には「正月早々何だか腹が立つのは本島人の店がお正月らしくしてゐない事」(「台北の正月」第26巻、1911.1)と、あくまで〈内地〉を基準とした価値判断が見られた。ところが、二年後には「日本人も生蕃のことは余り笑へません」(「浴泉記」第51巻、1913.2)とされ、雑誌の最終巻(「つれ/\゛日記」第88巻、1916.3)には「内地人」が台湾人に暴力をふるう光景を目にし、「弱い者いぢめは野蛮時代の遺風である」と難じられている。依然として日本人を優位とする思考の範疇にはあるものの、植民者である自身(たち)を振り返る目はさすがに厳しくなったと言えようか。ユカシの記事は台湾発刊の女性雑誌としてのローカリティ、オリジナリティ、リアリティを担保するものとして機能している。
 
3.〈内地〉雑誌に伍する
 『台湾愛国婦人』においてユカシはなぜ他の女性記者とは異なり、署名入り記事を毎号のように発表できたのか。その理由は二点考えられる。一つには彼女が渡台前、既に女性雑誌の記者としてのキャリアを積んでいたことがあげられる。二つ目の理由としては、同誌編集主任・加納豊の存在があげられる。ユカシと豊は、台湾へ渡る直前まで『家庭雑誌』(主幹・和田勝彌)において共に寄稿・編集を行っていた。二人とも『台湾愛国婦人』創刊翌年(1909年)に台湾へ渡ったと見なされ、その〈協同〉の働きは〈外地〉の雑誌編集においても継続されている。
 質疑応答の場において、この『家庭雑誌』と『台湾愛国婦人』の連続性について質問を頂いた。両誌は頁数等、体裁上はかなり異なるが、ともに文学作品を呼び物としている点は共通していると回答した。また、『台湾愛国婦人』が〈内地〉の女性雑誌をとりあげた合評で評された、具体的な雑誌名について質問を頂いた。『婦人画報』『婦女界』『婦人世界』『新女界』『婦人くらぶ』等がとりあげられていることを回答した。
 『台湾愛国婦人』は〈内地〉商業雑誌に伍する意識が見られる媒体であるが、ユカシはそうした雑誌の性格に深く関与している記者の一人であると本発表では位置づけた。