エルンスト・ロヴォールトとロヴォールト出版者 佐藤隆司 (2013年5月 春季研究発表会)

エルンスト・ロヴォールトとロヴォールト出版者
(2013年5月 春季研究発表会)

佐藤隆司

 エルンスト・ロヴォールト(Ernst Rowohlt)と彼の出版者については,キァウレーンの『わが友,出版人エルンスト・ローヴォルト』という翻訳書が出ていることもあって,わが国でも知られているのではないかと思う。それにもかかわらず,ここで取り上げようというのは,この何年間私が取組んできたナチス時代のドイツ出版人,図書館人の生き方といったテーマにそってロヴォールトを見てみたいということにほかならない。
 株などの取引業者の息子として1887年商業都市ブレーメンに生まれ,ギムナジウムの7年を終了後,短期間金融業者の下で修業した後,出版業に赴くべく,ライプチッヒに向かい,音楽出版社として伝統のあるブライトコプフ社で修業を積み,出版人としての歩みを始めた。文芸出版社を営むキッペンベルクの所にも見習いに行っている。彼も自立した後には,カール・バウアーをはじめ,数々の見習生を受け入れている。こうしてドイツ出で版業界は伝統を継続していく。
 ロヴォールト出版社の歴史は3期に分れる。
 第一出版社;1908年から1912年まで。ライプチッヒの印刷会社Druglin社の庇を借りて1908年に創立。この時期の著者としてはMax Brod, Georg Heim, Franz Kafkaなどがあげられる。
 第二出版社;1919年から1943年まで。第一次世界大戦の後ベルリンで新たに発足。1930年代にBalzacやCasanovaの全集,またアメリカの作家Sinclair Louis, Ernest Hemingwayなどの作品を出す。Kurt Tucholsky, Robert Musil, Leo Slezacなども同社の作家たちであった。1931年に経営危機に陥ったが,アルコールやモルヒネ中毒気味のHans Falladaを庇い育て,かえって彼の作品の大ヒット(映画化もされる)によって社運を盛り上げることが出来た。
 第三出版社;1945年,エルンストの長男,Heinrich Maria Ledig-Rowohltがシュッツガルト近くのホーヘンゲーレンで再建。サルトル,ボーヴォワール,カミュ等の作品も取り上げる。1949年にセラムの作品(日本訳『神・墓・学者』が大ヒットする。Ro-Ro-Ro(Rowohlt-Rotation-Romane)シリーズも革新的であった。1982年以降はGeorg Holtzbringの傘下に入ったが,ロヴォールトの屋根の下には“Kinder Verlag”(児童図書),“Wunderlichverlaq”(1927年創立の出版社だが,1980年ロヴォールトの傘下に入り娯楽ものを扱う),“Rowohlt Taschenbuchverlag”(ポケット版専門)“Agentur fur Medienrecht”(著作権の管理)といった子会社がある。
 ナチス時代のロヴォールトをみることにしよう。ドイツのジャーナリストでロヴォールトと親しかったクルト・ビントゥスという人が彼についての伝記的なものを描いているが,その中で,ナチス時代,ロヴォールトが云っていたこととして,Junge Literturは“tatsachlich”であってほしい,ということをあげているが,そこには出版物が特定のイデオロギーから自由であるべきであるという彼の信念が見られるように思える。ビントゥスは彼の人生は彼の体つき同様巨大“kollosarich”であるとのべていて,キアウレーンも「彼は文学者か,ユダヤ人か,回教徒か,仏教徒かキリスト教徒かあるいはインド人か中国人か,また白人か黒人かといったことは,彼にはまったく関心のないことであった」と述べて,彼の人柄をあらわしているのだが,ナチスの時代,例えばアメリカのジャーナリストでナチス批判のフーベルト・ニッカーボッカーの本も出している。
 こうして彼はナチス当局から嫌われることになり,1939年ブラジルに亡命する。しかし翌年には危険を承知で,雇われ水夫となって57日かけて祖国に戻ってくるのである。滅びゆく祖国ドイツの運命を国民ともども共有せんがためであった。ナチスに抵抗し,一度はアメリカに亡命したが,運命を共有すべきとして祖国に戻り処刑されてしまった神学者ボンへッファーの姿も思い起こす。ロヴォールトについての資料で私が見た限りではキリスト教のキの字もなかったように思う。しかし,彼の祖国回帰はほとんど十字架の道行ではなかったろうか。
 私はこれまで十数人の出版人,図書館人のナチス時代の姿をみてきたが,それぞれが特徴ある生き方をしていて,興味深いことが限りない。