中川裕美
1902(明治35)年,最初の少女専用雑誌である『少女界』が金港堂書籍から創刊されると,明治末期から大正期にかけて数多くの少女雑誌が創刊された。雑誌を彩ったのは,高畠華宵,中原淳一ら挿絵画家によって描かれた叙情画であった。
ところが1931(昭和6)年の満州事変以降,次第に軍国色が強まっていくと,それまでの豊かな雑誌作りは困難となっていく。子ども向け雑誌の誌面作りに最も影響を与えたのは,1938(昭和13)年10月の「児童読物改善ニ関スル内務省指示要綱」である。この要綱は内務省警保局図書課(後に情報局)の主導によって成立したもので,立案にあたっては作家,編集者,教育学者,教育者など複数の民間識者が積極的に関与,協力した。
「指示要綱」では,「過度ニ感傷的ナルモノ,病的ナルモノ其ノ他小説ノ恋愛描写ハ回避」することと記されていたほか,編集上の注意事項として,5~6歳前後を対象にした読物には母性愛が現れていること,更に「華美ナル消費面ノ偏重ヲ避ケ,生産面,文化ノ活躍面ヲ取入ルルコト」が求められていた。「過度ニ感傷的ナルモノ,病的ナルモノ」「華美」を廃止するように求めるこれらの事項が,少女雑誌を念頭に置いたものであることは明白である。
そこで本発表では,「指示要綱」の成立後である1938年11月から1945年8月までを分析の期間とし,昭和期を代表する少女雑誌である『少女倶楽部』(大日本雄弁会講談社)の表紙絵の分析を行った。
『少女倶楽部』の表紙絵を最も多く担当したのは多田北烏である。キリンビールを始めとして多くの広告ポスターを手がけた多田は,立体感のあるふくよかで美しい女性を描いた。多田の描いた少女画は夢二や淳一の描いた叙情画とは異なり,美少女ではあるものの,その身体はよく発育した肉付きをしており,どっしりとした腰つきをしていた。またバストアップが少なく,少女がどこで何をしているのかが明確な表紙絵が多く描かれていた。
当日の発表では,表紙絵から「労働」「母性」「健康」「癒し」「国家」という五つの側面から,ヴィジュアルイメージによって形成された戦時期における「理想的少女」像に迫った。
分析の結果は以下の通りである。
『少女倶楽部』の表紙絵に描かれた「少女」は,叙情画に見られるようなロマンティックでセンチメンタルな「少女」とは異なり,健康的な体躯と溌剌とした明るい表情の「少女」が多く見られた。「少女」の持つ「明」のイメージを全面に押し出していたのが,労働と運動というモチーフで描かれた「少女」であった。労働をする「少女」の表象からは労働に伴う激務や肉体の酷使といった「負」のイメージが削ぎ落とされ,「少女」の真面目さや品が強調されていた。運動をする「少女」は躍動感や力強さが表現され,若さ溢れた「少女」の生命の輝きが描き出されていた。
また,「少女」のしっかりとした腰付きは,「産む性」としての役割を暗示しているものと考えられる。ところが,子どもと共に描かれた表紙絵は少なく,多産報国が求められた時代状況にあっても,「少女」と「性」を直接的に描くことは困難であったことが伺える。その代替表現として用いられたのが動物であった。兎や鳥,子牛などに向けられた微笑みは慈愛に満ちており,「少女」と「母性」とを緩やかに結びつけたのである。
「少女」の持つ優しさや清らかさが前景化されていたのは,兵士の慰問をする「少女」の表象であった。慰問袋を用意する「少女」の姿は清潔で,戦争が持つ血なまぐささや残虐性は僅かも感じられない。むしろ,勇ましく戦いに向かう兵士を背景化して対比させることで,「少女」の清らかさ,あどけなさをより強調している。唯一,『少女倶楽部』『少年倶楽部』の表紙絵において明確な表裏関係を示していたのが,この「慰問をする側/される側」という表象であり,このことからも癒しとしての「少女」の役割は重要であったと考えられる。
以上述べてきた,健康,明るさ,若さや生命の輝き,母性,癒しといった「少女」表象の総体として描き出されていたのが,大地と「少女」,伝統と「少女」というモチーフであった。豊かに実った作物を収穫する「少女」は大地が持つ生命の循環=永遠を象徴していると考えられる。「少女」を牧歌的な農村風景と共に描き出すことによって,日本人の心の原風景と「少女」とを結びつけたのである。また,古典的な衣装に身を包んだ「少女」は道徳的規範や純真無垢さの象徴であるとともに,「伝統」の体現者にふさわしい「処女性」をも兼ね備えていた。「守るべき国家」と「守るべき少女」とを相互関係として描くことによって,政治的プロパガンダとしての「少女」表象が完成していったのだと考えられる。