「災害ジャーナリズムの役割実践に関する研究」本多祥大(2022年5月14日、春季研究発表会)

災害ジャーナリズムの役割実践に関する研究
――熊本県川辺川ダム建設の新聞報道を事例に

 本多祥大
 (日本大学大学院新聞学研究科博士前期課程)

 
1.研究目的
 川辺川は、熊本県を流れる一級河川球磨川の支流であり、その流域は1963年、1964年、1965年と3年連続で水害に遭っていた。被害を契機に、1966年、洪水対策のため川辺川ダムの建設が計画され、約30年にわたる補償交渉の末、1996年にダム本体工事の着工が決まった。そして、着工の決定に際して、ダム建設に関する報道が朝日新聞、毎日新聞、読売新聞で活発化した。活発化した報道の影響か、2008年9月11日、「世論は環境保護を求めている」という認識に基づき、蒲島郁夫熊本県知事によって川辺川ダムの建設計画が中止された。その過程では、治水と環境保護の両立を目指した流水型ダムという、今にも通じる選択肢も提案されていたが、ダムの建設を認める提案は受容されなかった。治水という当初の目的は下位となり、環境保護が最優先となったのである。この一連の流れは、ダム政策に関する地域の共通善が、ダムによる治水から環境保護へと変化した事例であり、それに伴って、政策が急進的に変化したのである。しかしながら、急進的なダム建設の中止が適切でなかったことが、2020年の熊本県球磨川氾濫で判明した。ジャーナリズムが急進的な政策の変化に影響し、受け入れ難い結果を地域にもたらしてしまったのであれば、同じことを繰り返してはならない。以上の問題意識に基づき、本研究では、川辺川ダムの建設に関する新聞報道を分析し、災害ジャーナリズムの役割実践の実態を明らかにすることを試みた。
 
2.概念整理
 ダム建設といった政策で地域に求められるのは、地域にとって何が善であるのかを熟議することである。そして、政策に関する熟議の促進は、ジャーナリズムに求められる役割のひとつであるが、災害ジャーナリズムと一般的なジャーナリズムでは考え方が若干異なる。まず、災害ジャーナリズムでは、減災が絶対的な善であるとされ、減災に関する熟議の促進がジャーナリズムの役割であるとされる。対して、一般的なジャーナリズムの研究では、地域の共通善は熟議を通じて地域が決定するものであり、ジャーナリズムの役割は熟議を促進することであるとされる。すなわち、特定の意見を絶対的な善として、それを促進することではない。仮に特定の意見が善とされ、報道に現れているとしたら、それは熟議を促すジャーナリズムとは言い難いのである。
 
3.分析対象
 本研究では、特定の意見を善とする報道が政策の当事者の関係性に現れることを仮定し、記事で引用される情報源に注目した。分析対象は、以下である。
(1)サンプリング:各新聞社の電子データベース(聞蔵Ⅱ、毎索、ヨミダス歴史館)について、検索キーワード「川辺川ダム&治水&環境」で記事を抽出。
(2)分析対象期間:抽出された記事で最も古い記事から2008年9月12日まで。
 結果、朝日新聞214件、毎日新聞127件、読売新聞123件の合計464件が抽出された。
 
4.分析結果
 分析に際し、記事が持つ性質としてモニター的役割と急進的役割を用い、複数回答で集計した。モニター的役割とは、事業の進展や公的機関の意思決定を伝える役割であり、3社の合計では330件の記事が該当した。対して、急進的役割とは、市民の意見に基づいて公的機関の説明責任を追求する役割であり、3社の合計では170件の記事が該当した。

 記事で引用されていた情報源に注目すると、まず、モニター的役割の記事では、国土交通省、熊本県知事、流域市町村長といった政策に関わる重要な当事者は大きく欠けることなく引用されていたことがわかる(図1)。対して、急進的役割の記事で引用されていた市民の意見については、大きな偏りが確認された(図2)。引用上位7種類の市民団体は、すべて建設反対派の市民団体であり、賛成派は8位まで登場しなかった。また、引用率が高い上位3種類の市民団体については、特定の代表者の意見が引用される傾向にあり、彼らは、ダムの建設に絶対反対の立場であり、治水と環境の両立を目指す流水型ダムに関しても、否定する意見を表明していた。以上から、川辺川ダムの報道では、ダム建設を進める権力側とダム建設に反対する市民という構図が形成されていたことが指摘できる。特に、市民の意見については、徹底的にダムを認めない市民団体の意見が引用されることで、流水型ダムという妥協案すら認められない状況が形成されていたと言える。
 上記の問題点は、第三の選択肢としての妥協案を熟議する状況が形成されなかったことにあるだろう。ジャーナリズムが熟議型デモクラシーへの貢献を志すのであれば、多様な意見の妥協案を熟議させる環境を形成することが求められる。そのためには、妥協案を熟議する態度を示さない市民に対して疑問を呈するジャーナリズムも必要ではなかろうか。