第14回 国際出版研究フォーラムに寄せて  長谷川 一 (会報127号 2010年3月)

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■ 第14回 国際出版研究フォーラムに寄せて (会報127号 2010年3月)

 長谷川 一


 5月に南京で開催される国際出版研究フォーラムで発表の機会に恵まれることになった。
 今年で14回目になるという。「という」などと及び腰になってしまうのは,じつはこれまで参加した経験がないからだ。恥ずかしながら,どんな会合なのかさえよく知らない。われながら困ったものである。
そんな人間がのこのこ顔を出し,あまつさえ,えらそうに発表までしていいものか。川井学会長と植村副学会長をつかまえて,おそるおそる訊ねてみた。すると二人は鷹揚にうなづき,あなたのようなひとが登壇するのもいいでしょうと励ましのお言葉までかけてくださった。ありがたいことである。
 何を話せばいいだろう? むろんいま関心をもってとりくんでいること以外にはありえまい。研究者としてのぼくの立場は,人文学としてのメディア論にある。産業別あるいは媒体別に縦割り化された制度の内側ではなく,領域横断的もしくは脱領域的に,批判的にとらえることで,物事の成り立ちを詳らかにし,可能性を展望する。書物や出版や編集を相手どるにあたっても,この姿勢に変わりはない。
 既存マスメディアの例に漏れず,出版産業はデジタル化とグローバル化,いいかえればメディアと経済の二つの側面から変容の圧力をうけている。アマゾンのKindleが売れ,アップルはiPadと電子書籍ストアを準備しており,グーグル・ブック検索が波紋をよんで,日本ではかつての文化帝国主義を彷彿とさせる言説さえ飛びだす始末だ。ぼくがまえたいのは,こうしたもろもろの現象の,その底で蠢く何か,である。
 変容するのは媒体や技術や産業だけではない。ぼくたちの抱くさまざまなイメージもまた変容圧にさらされている。イメージと聞いて,たんなる心理上の幻影と片づけるのなら間違いだ。なぜならそれらイメージこそが,字面とは裏腹に不可視でありながら,ぼくたちの認識や発想の基盤にあって,これを枠づけているものなのだから。
 こんな状況のなかで,ぼくはいま,ひとつの問いを発している。なぜ書物は「不自由」なものとして表象されるようになったのか。問いはシンプルだが,掘り起こされるべき話の柄は大きい。いっぽうフォーラムで割り当てられる時間には限りがある。だから今回は,そんな話の枕の部分を発表させてもらうだけで,もう十分だとおもう。
東アジアにおける出版研究国際交流のささやかな契機となれば,望外の喜びというほかない。

注:国際出版研究フォーラムは,出版研究をめぐる国際的な研究集会で,1984年にソウルで第1回が開催された。現在では,2年置きに韓国出版学会・日本出版学会・中国編輯学会が持ち回りで開催国となる。

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