「中公新書刊行の言葉の思想」松井勇起(2017年12月 秋季研究発表会)

中公新書刊行の言葉の思想
加藤秀俊の経験論

松井勇起
(筑波大学大学院図書館情報メディア研究科博士後期課程)

 1962年に中央公論社は中公新書を創刊し、社会学者の加藤秀俊京大人文研助手が刊行の言葉を執筆した。2012年に中央公論社では刊行50周年を記念し『中公新書総解説目録』を作成した。加藤はこれに「中公新書創刊のころ」という文章を寄稿しており、「そして意見が一致したのは「観念論」を排除することであった。」と書いている。つまり、岩波との差別化戦略として「経験論」が良いと加藤が考えたことを示す。

 イギリス経験論とは経験重視の哲学であり、時代が下ると功利主義やプラグマティズムなどに分化した。日本では経験論は明治時代に流入したが、大正以後は教養主義のもとドイツ観念論とマルクス主義が流行した。加藤の出身校である東京商科(一橋)大は商学・経済学といった実学を重視し経験論が強い風土であった。

 根津朝彦『戦後『中央公論』と「風流夢譚」事件「論壇」・編集者の思想史』(2013)によれば、中公の特徴は「外交安保面で保守的」とした。しかし、根津の論点はあくまで雑誌論壇であり書籍部門とは別である。また、「中公は編集者の色が出やすい」ので『中央公論』と中公新書には差異があると考えられる。根津の見出した中公の特徴には、経験論という観点は存在しない。

 また、竹内洋『大衆の幻像』の論考「加藤秀俊論」(2014)や佐藤卓己『物語 岩波書店百年史 2』(2013)では、加藤が一橋の町人文化や経験論と関連していることを指摘しているが、中公新書と中間文化論の関係には触れられていない。

 蔵原惟人は「文化革命と知識層の任務」(1947)で、岩波文化=教養主義的・自由主義的で戦前は力を持てないもの、講談社文化=大衆的で戦前は力を持ち軍国主義に親和性という図式を提示した。丸山眞男も「日本の思想」(1957)で、理論信仰=マルクス主義など体系的でトータルな理論を信仰するもの、実感信仰=理論を嫌い個々の実感を重視するものと図式化し蔵原の二項対立を引き継いだ。

 それに対して加藤は『中間文化論』(1957)で蔵原・丸山の図式に依拠しながら対抗軸を示した。岩波文化・理論信仰に該当する高級文化と、講談社文化・実感信仰に該当する大衆文化の中間としての中間文化の発達を指摘し、理論重視の蔵原・丸山の類型への批判と経験重視の路線を打ち出した。加藤に影響を与えた南博、鶴見俊輔、梅棹忠夫、デイビッド・リースマン、柳田国男はそれぞれ写実主義的な社会観察とアブダクションによる仮説構築という二点で共通しており、加藤はこの二点を受け継いでいる。

 写実主義(realism)は美術・文学用語で現実の現象をそのまま描き出す表現を意味する。加藤の社会学において、人々の実感に基づく具体的な描写が豊富でわかりやすい写実主義の発想は、現実観察としてのフィールドワークにマッチする。

 矢沢修次郎『現代アメリカ社会学史研究』(1984)によれば、アメリカ社会学はアブダクションを唱えたパースを開祖とするプラグマティズムの影響を受けている。アメリカ社会学はフィールドワークを重視するシカゴ学派として開花し、加藤を指導したリースマンもシカゴ学派的な経験論を継承した人物である。

 米盛裕二『アブダクション――仮説と発見の論理』(2007)によれば、アブダクションとは①「ある特異な事実Cがある。」②「もし、仮説Hが正しいならば、事実Cを説明できる」③「よって、仮説Hは真である。」の順に行う思考法である。アブダクションは仮説を見出すため、論理的には大きく飛躍する分、演繹と帰納により仮説の検証を行う。質的調査は少数事例から仮説構築するアブダクションを方法論として用いるものであり、シカゴ学派のスタイルである。

 加藤はメディア論・コミュニケーション論の専門家でもあり、社会観察としてマスメディアの発達や情報社会化を観測していた。中間文化をマスメディアが担い、カッパブックス(音羽グループの光文社)など新書ブームを根拠に新書がその例であるとする。加藤自身も中公で新書『整理学』を執筆し、情報社会化による情報洪水の中、情報の取捨選択・整理のスキルの必要性を主張した。

 加藤は、中間文化としての新書は大衆文化と高級文化とを橋渡しするものと考え、観念論的=上からの啓蒙的な岩波(高級文化的)と講談社的=大衆文化的な発行部数主義・経験べったり両方を排する、経験に基づいて理論へという第三の道として考えた。それは、中間文化論を体現するのは中公であるとの宣言である。

 加藤は、大衆的な基盤である実感・経験を重視しながらそこから事実をもとに探求させて、閃きによる飛躍を行わせるという思考を読者に求める。それは事実をもとに自分で考える大衆へというメッセージであり、写実主義的な観察をまず行い次にアブダクションをするという順という方法論で成せると考えていた。岩波的啓蒙とは違った「学習科学」的姿勢である。これにより、大衆の全体主義的要素を軽減することを意図した。