追想 箕輪成男氏 道吉 剛 (会報137号 2014年4月)

追想 箕輪成男氏――冗談と啓示の間から

道吉 剛 (図書設計家)

 1964年秋,東京大学出版会にはじめて箕輪成男氏を訪ねた。恩師・勝見勝先生のご推薦によるものであり,東京五輪のデザイン活動終了直後のことであった。近隣には銀杏の樹が鬱蒼と繁り,その地表は雨水で抉れていた。大学出版会の建物1階フロアには欧米の大学出版部の書籍が陳列され,学術出版の風格を醸成していた。
 箕輪成男氏と中平千三郎氏(当時,東京大学出版会営業担当)は,予想に反して気軽に接し緊張を和らげる配慮をして下さったが,応答の随所で「道吉先生」と呼ばれるのには当惑した。ここは学問の府の頂点を究めた,知を集約する機関である。「先生という呼び名は,そのレベルに遠い若輩者には困ります」と率直に述べた。すると箕輪氏は「うちでは外から来る人に対して,ものを書く人は先生,ものを造る印刷・製本の人は大将と呼ぶことにしている。この二通りだけで,貴方は書く方に入れといたから,ま,気にしないで」と驚くべき回答をされた。この冗談と軽妙なお二人の談笑とのお陰で,なんとか話せそうだと初対面の私の硬直は溶解した。
 1965年春,『オックスフォード百科事典』原語版の日本国内向け内容見本のデザインが筆者の初仕事であった(結局は東京大学出版会からは未刊)。歴史が487年に垂んとするオックスフォード大学出版局の,オーソドックスかつ精緻な編集構成を反映するデザインを目指す。箕輪氏から懇切なご指導を受けつつ制作を進めたが,その過程で出版局の紋章見本が数十種もあることには驚かされた。
 1970年秋,大阪での日本万国博のデザイン業務終了を経て個展を企画する。戦後日本初の「ブックデザイン展」を新宿・紀伊國屋画廊で開催(1971年7月5日―11日),そのおりに箕輪氏からつぎの推薦文を戴いた。
 「本のデザインは何千何万という読者を鼓舞し,その本を選択し,読ませるために重要な役割を果すのみでなく,読んだ本から受ける感銘の相当部分さえもがデザインからくるものであるといえよう。デザインの成功が本の発行部数の増大にいかに影響するかはアメリカでも日本でも既に実証されていることを考えると,ブックデザイナーは著者,編集者と共に,その本の共同制作者であるばかりでなく,営業部と共にその本の販売に関与しているのである。(中略)この国における造本の質を高めるためには,デザイナーがカバーや箱という外装のみでなく本文もふくめて全体のレイアウトを統一的に扱うべきだと思うので,そのような方向に道吉さんが,さらに実験と創造の道を進めて下さるよう期待したい。」
 この文末6行の啓示が私の活動の原点となり,以後,制作研究,専門教育,団体組織,国際活動などへと導いてくれることになる。
 1978年夏,箕輪氏から呼ばれて国際連合大学の創設事務局へ赴いた。事務局は渋谷の東邦生命ビル(現・渋谷クロスタワー)の23階にある。当時,渋谷にまだ超高層ビルは少なく,眺望は広かった。学術情報局長兼出版部長に就任しておられた箕輪氏から要請されたのは,「大学出版部協会・15年の歩み」冊子のデザインである。表紙に10校の出版部の名称を和英両方の表記で記し,青と白地のシンプルなデザインにまとめたところ,「簡素でよいが,もっと力強く大胆に」と啓発され,方向性を想定することができた。国際連合大学のニューズレターのデザインをリニューアルする仕事ではアマデオ・アルボレーダ氏と出会い,その後も制作の協議が続いた。
 1985年秋に『国連大学奮戦記――国際誤解学のために』(サイマル出版会)が刊行され,頂戴する。丹下健三設計の本部ビルは青山通りに建設され,筆者オフィスの目の前にあったので,基礎工事から完工までを一週毎にビデオカメラで連続画像として記録した。
 箕輪氏が外国人教職員たちとともに執務する光景を直接見る機会は少なかったが,人種や国情が異なる者同士の間に生じる文化摩擦と軋轢は,容易ならぬものがある。同書には,苛酷な国際関係の場裡が悲喜劇的に描かれており,緊張のなかにも冗談を好まれる氏の余裕がうかがわれた。
 1988年秋,第4回国際出版研究フォーラムが青山学院で開催され,箕輪氏のご尽力で参加は10か国に及ぶ。告知ポスターの図形は,後に日本出版学会のマークとして採用された。
 『「国際コミュニケーション」としての出版』が刊行されたのは1993年春のことで,ソ連邦の解体,湾岸戦争など世界政治はまさに激動のただ中にある時期であった。本書は,類書のない未踏の領域に入る内容であることから,それを暗示するに相応しい要素を本文から選び,図として再編したものをカバーに掲げようと考えた。出版をめぐる機能と環境,国際コミュニケーションの変容,国家環境と翻訳の成立,紙の通った道,知識情報の国際的流れ,ベビーフードをめぐって対立する3つの力――これら6点のダイアグラムスを再構成し,重なる情報空間を表現することで著者のイメージに接近しようと試みたのである。箕輪氏からは「今までの自著の中で一番,判りやすいカバーだ」との評価を得た。
 1997年秋に刊行された『出版学序説』は,箕輪氏の学位論文の序論に該当する。出版研究(出版学)の位相を解明しようと一年近く心血を注いだ労作であるむね,序文に記されている。出版学の基本的性格,関連諸学,研究・教育体制,各領域の研究動態,社会科学としての出版学を模索して,という五章を主柱とする包括的な展望は,出版学研究のテキストに相応する。カバーの写真は,1971年に筆者がグーテンベルク印刷博物館の外壁浮彫を撮影したものから使用した。発行所は,前掲書ともに出版の教育・研究の中心,日本エディタースクール出版部であった。
 2000年夏,東京大学出版会から,創立50周年を機にマークの作成を委嘱された。書籍と,東京大学のシンボルである銀杏とを合成した案に決定,箕輪氏にも報告した。
 2002年春,記念すべき『パピルスが伝えた文明――ギリシア・ローマの本屋たち』の上梓から,壮大な歴史ドラマのごとき出版企画が開幕した。以来,「箕輪出版学」の成果が,出版ニュース社・清田義昭氏により続行される。装幀は主題に即した画像をと思い,カバー表にはパピルスを見る人々を,カバー裏には地中海周辺の古地図と木板浮彫を配した。本文組版は全233頁をDTPで行う。デジタル化によって文字組の細部まで調整できることはもちろん,図版・組表に至るまで著者のデリケートな希望に即応できたため,箕輪氏はご満足のようだった。しかし作業の様態が変化し,精度が増す一方で,その工程は複雑になり,所要時間は増加していた。
 箕輪出版学の第2編『紙と羊皮紙・写本の社会史』(2004年9月刊行)では,古代・中世の宗教書から多彩な世俗書まで,様々な書物が織りなす出版の世界が描かれる。出版物のカバーには,「書影」といわれ本の姿を代表する役割が付随する。そこで古代を再現するイメージとして見つけ出したのが「太陽神シャマシュの石版」(大英博物館蔵)である。紀元前2800年頃,シュメールの初期王朝時代の遺物である。4800余年後,残念ながらその地は戦場と化した。
 2006年秋に刊行されたのは『中世ヨーロッパの書物――修道院出版の九〇〇年』。写本は多品種・少量生産に向き,印刷本は少品種・大量生産に向く。木版印刷がグーテンベルクより数百年早くはじまった東アジアでは,写本の大きな役割を見落としがち,と書かれている。視界が不明確な中世の事情を,著者はどうやって調べたのだろう。巻末に並ぶ参考文献を見ると,123件のうち54件が洋書であった。これがあるいは情報源かとも思われる。カバーに用いた写真は修道院の写本作業を彫刻した象牙レリーフ。修道士(写字生)の筆写は当時の重要な仕事であった。表紙の用紙は書名の雰囲気に合わせて選んだ。
 『近世ヨーロッパの書籍業――印刷以前・印刷以後』(2008年9月刊行)のカバー図版には,ヨハネス・グーテンベルク(1397頃―1468年)の印刷工房を継承したヨハン・フスト,そしてペーター・シェーファーの出版史上初の社標を右上に配した。
 2011年6月刊行の『近代「出版者」の誕生――西欧文明の知的装置』には,万里横行の4人――キャクストン,ウォルデ,コーベルガー,プランタンら出版・印刷業の先駆者たちが西ヨーロッパ各国から登場する。彼ら「出版者」の活躍によって,16世紀の出版業は資本主義経済の先端産業となったのである。カバー図は,同時代のコーベルガー刊本(1493年)をモチーフとして凸版状に画像加工・着色を施し,本の表紙にはプランタンの社標を盛り込んだ。
 シリーズはいよいよ次の巻で現代に到達するかと期待させる勢いである。しかし本書後半部に差しかかったところで,箕輪氏は新たな時代についての言及を性急に行い,その筆は措かれていた。世界出版史の大河ドラマはまだ続くかと思われたが,著者は2013年8月30日,力尽きたように逝去された。
 本書巻末にある「あとがき」は「出版の大変動期に筆者が捧げるこの『世界史の中の本屋たち』シリーズは,人類数千年にわたる出版活動へのレクイエム(鎮魂曲)ではなく,その偉大な達成を確認し讃えると共に,出版の新しい飛躍・再建を確信する筆者のエンコミウム(讃辞)なのである。」とむすばれ,2011年5月31日という日付が添えられている。この言葉は今も筆者の心に響いている。50年の長きにおよぶご指導を深く感謝するとともに,謹んで御冥福をお祈りしたい。