第20回日本出版学会賞 (1998年度)

第20回日本出版学会賞 (1998年度)

 第20回日本出版学会賞の審査委員会は,1998年2月1日から3月29日までに計3回開かれた.審査作業は,審査委員会の委嘱により古山悟由会員ほかが収集した対象期間内の出版関係著書・論文リストおよびアンケートによる会員からの推薦,各審査委員の情報をもとに進められた.
 その結果,雑誌論文の分野では,授賞候補に取り上げて検討に値するものとして審査委員から強く推奨された個別論文はとくになかったため,遺憾ながらこの分野での選考は見送らざるを得なかった.しかし,審査委員会は,1979年4月に創刊され,1998年8月に第50号をもって終刊を迎えるにいたった多川精一編集『E+D+P』(東京エディトリアルセンター)が20年の長きにわたって編集・デザイン・印刷などの面での数々の斬新な試みを通じて,出版界・印刷界を啓蒙し続けてきたその活動にとくに注目した.エディター(E)・デザイナー(D)・プリンター(P)の3者が心を1つにして協力してこそ,より本作りが実現するという意味を込めた同誌は,縦組と横組とを1冊の中に混在させるとの発想から,ページを上に開いていくという珍しいスタイルを採用しており,内容・印刷ともにすぐれた雑誌として,主として一個人の努力により発行が続けられてきた.創刊号から終刊号までの全50号を概括すると,出版・印刷に関わる人たちの意見を拾い上げ,またその折々の先端技術を利用して先駆的な印刷を試みるなど,20年間の出版界・印刷界の流れを鮮明に浮き彫りにした貴重な出版史料群をなしており,委員会はこれを日本出版学会賞特別賞に値するものと判断した.
 一方,単行本の分野では,種々討論の末,予備審査の段階で,(1)木下修著『書籍再販と流通寡占』(アルメディア),(2)杉原四郎著『日本の経済雑誌 続』(日本経済評論社),(3)箕輪成男著『出版学序説』(日本エディタースクール出版部),(4)横山和雄著『日本の出版印刷労働運動《戦前・戦中編》』上・下(出版ニュース社)の4点(著者の50音順)に絞り込み,さらに内容その他にわたって検討を加えた.
 まず,著作物,とりわけ書籍・雑誌の再販制度について総合的な論究を試みた(1)は,再販売価格維持制度をめぐる問題を概観したのち,出版物再販制度の存在が出版界に及ぼす影響や法定再販のメリット・デメリットを検証する.また,巻末に付された「出版物再販年表」は貴重である.ただ,本書は「出版流通改革論2」と銘打たれているが,著者によれば,その1の『出版流通と取引慣行』と同時刊行する予定であったが,著作物再販の存廃論議が活発に行われているため,本書を先に出版したとのことである.著者の構想する「出版流通改革論」の全容を明らかにする後者の出版が遅れていることが惜しまれる.
 次に,日本の経済雑誌について論じた(2)は,前著のいわば続編であるが,経済学者の目をもって出版現象の一部分を解明し続けようとする著者の学問的姿勢には敬意を表するものである.しかし,本書が他の著作以上に学会賞に値するとの判断を得るにはいたらなかった.
 他方,かねてより学問としての出版学(出版研究)の確立を志向してきた著者の手になる(3)は,著者によれば,「本来学位論文の序論に該当するすぐれて専門的な」著作であり,これまでの一連の研究成果を踏まえつつ,出版学の基本的性格や関連諸学との関係を考察し,日本を含む諸国における出版学の研究・教育体制や研究動態に触れた意欲的かつ刺激的な著述である.本書を1つのきっかけとして,後に続く若い研究者の手で出版研究がより一層深化されることを期待したい.
 これに対して,これまで部分的にはともかく,通時的に取り上げられることのほとんどなかった明治期から第2次世界大戦直後にいたる日本の出版印刷労働運動の歩みをたどった(4)は,その時どきの出版界の状況にも適宜触れつつ,また著者自身による関係者への取材データを交え,一般の研究者には目を通す機会に恵まれなかったような労働運動関係の多くの史料をも駆使してまとめ上げた大部の記録である.1000頁を超える大作だけに,一気に読み通すことは容易ではないが,そこに含まれた多くのデータは今後の研究者にとっては大きな有用性をもつものである.ただ惜しまれるのは,執筆に際して用いられた数多くの参考文献のリストが欠落していることである.しかし,出版史の中でもとかく見落とされ勝ちであった出版印刷労働者の運動に光を当てた著者の努力と熱意,それに彼らに対する愛情は,その瑕疵を補って余りあると思われる.
 以上を総合的に判断した結果,当委員会としては,第20回日本出版学会賞を横山和雄著『日本の出版印刷労働運動《戦前・戦中編》』上・下(出版ニュース社)に対して,また前述の理由により同特別賞を,多川精一編集 雑誌『E+D+P』(東京エディトリアルセンター)に対して授与することに決定した.


【学会賞】

 横山和雄
 『日本の出版印刷労働運動《戦前・戦中編》(上・下)』(出版ニュース社)

 [受賞の言葉]

 作る側から……  横山和雄

 私の著書『日本の出版印刷労働運動《戦前・戦中篇》(上・下)』が,明治期の活版工組合結成100周年にあたる1999年「第20回日本出版学会賞」を頂戴できたことにたいして,厚くお礼を申し上げたい.著書に登場する先輩・友人たちもこれを知り喜ぶであろうことと信じている.また,賞の選定に当たってくださった日本出版学会の役員,審査委員の方々のご推薦に心から感謝申し上げたい.
 もともと私は,出版や印刷にはまったくの素人で,縁あって新聞や雑誌の編集にかかわったことから,それらを実際に作る側の人たちはどのように育ち,どのような運動を続けてきたかを知りたかったことが,本書執筆のきっかけとなった.研究の発端が1952年秋であるから,本にするまでに半世紀近くかかり,その遅筆ぶりに自らもあきれている.
 日本に洋式の活版印刷術の本格的な普及がはじまってから,150年近くになる.無から出発した明治初期の活版職人たちは,外国語を日本語や漢語になおし,理解・普及しようとした努力は,現在でも教訓的である.
 文字(活字)を選びだすから文選と呼び(但し欧米には文選の言葉も作業もなく日本独自のもの),その文字を組みあげる作業を植字と呼んだ.Gothicを「呉竹」と表現し,clubを「倶楽部」と漢語で書いたのは,まさに彼らの知恵であり,言いえて妙である.それにしても現在の文章にはなんとカタカナ語が多いことか.また外国語をそのまま日本文のなかに挿入して知らん顔をし,それで学識の高度さを誇示している人は,もう一度,明治期の職人たちの原点に帰ってほしい気もする.
 素人なりに研究をはじめた私は,印刷会社にはたらく先輩たちにたいして,図々しくもふるまったことが多かった.
 1950年代末,昼休みに文選のやり方を教えてもらったことがある.古くからの文選職人から渡された,わずか15文字ほどの原稿を見ながら活字を拾いだしたが,予備知識なしの私はその15文字の活字を拾うため30分ちかくもかかっており,そのうち3文字(活字)は誤字がふくまれていた.ところが,その職人は与太話をしながら,わずか10秒ほどで同じ原稿の活字を誤字なしで拾っていた.そこには長い経験と磨きぬかれた技があり,素人の私は脱帽するほかなかった.
 その文選を教えてくれた職人は,かつてアナキスト連盟に所属した活動家であり,仕事が終わってから何回も私の取材に応じてくれた.同席したやはり同時代のコミュニストである文選工や植字工も,意見は違っていたがともに親切で仲のよい腕の立つ職人であったし,好好爺といった感じの人たちばかりである.取材した何人かのアナ,ボルの人たちも今は鬼籍入りしたが,それらの人たちの教えがなかったら,私は1行も書き進めずに立ち往生していたであろうとおもう.
 歴史をつづるとき,ときには現象の裏にまで立ち入って考えることも必要になろう.
 例えば,岩波文庫の『ビゴー日本素描集』に「秀英社事件」が収録されており,はっきりとビゴーは「秀英社事件」として官憲の弾圧を漫画化している.事実,秀英舎(大日本印刷の前身)は弾圧され印刷機などを没収された.しかし,あれだけ永く日本で取材していたビゴーが,会社の名前を間違うはずはあるまいという疑問もでる.そこから官憲にたいして「あの漫画は秀英社という架空の会社のことを描いたもので,決して弾圧された秀英舎を描いたものではありません」と言ってとぼけるビゴーの姿が浮かんでくる.もちろんこれは私の勝手な想像で,ビゴーに直接会って確かめることが必要であろうが…….
 私の本が扱った活版全盛の時代の印刷業界は,現在以上に出版・新聞の仕事に依存する比率は高かった.出版物や新聞をつくる仕事は,原稿を読んで活字を拾い,組版・印刷する作業がなければ,一歩も進まない.編集者はつね日頃,言論・出版の自由を主張しているが,その言論・出版の自由な表現と営業活動を生産面から支え保証しているのが印刷であり,その部門にはたらく人たちである.
 そのため私は,普段なにげなく使われている「出版産業」「印刷産業」などの表現は使わなかった.なぜなら新聞・出版・印刷などを切り離さず統一して理解しなくては,産業発達の叙述が進まなかったからである.また現在,通産省は「出版印刷・同関連産業」として新聞・出版・印刷・製本・用紙などを一括し,統一して対処しているのに,それらの事業に携わる人みずからが,本来統一理解さるべき出版印刷産業の把握を矮小化してしていったら,いくら「本が危ない」と強調してみても,所詮は発注者と受注者との対立を鮮明化するだけにおわってしまうのではあるまいか,とさえ思われてならない.その生産部門にはたらく人たちの,柔軟でたゆまない運動の積み重ねと実績が,永い期間かかったが,私に運動史を書かせた原動力だったといえる.


【特別賞】

 多川精一編集
 雑誌『E+D+P』(日本エディタィトリアルセンター)

 [受賞の言葉]

 『E+D+P』と私  多川精一

 関東大震災の直後に生まれ,「滿洲事變」勃発の年に小学校に入学,「日支事變」と共に中学校に進学し,そして「大東亞戰争」開戦ニュースを聞きながら最初の職場に向かった私は,典型的な戦中派として昭和の事件と共に育ちました.
 「少年倶楽部」を愛読しながら小学校の先生から皇道主義を吹き込まれ,中学では配属将校にいびられ,戦前の右翼思想に翻弄されながら入った職場が,陸軍の中枢,参謀本部の外国宣伝を行う会社でした.しかしそのためだったのか殺しも殺されもせず戦後まで生きのびることが出来ました.この最初の職場が『FRONT』を製作する東方社だったのは私にとって幸運でした.戦時中の4年間ここでの生活は,それまでの右翼思想に洗脳されかかっていた私の頭脳を正常に戻してくれたのです.
 軍の機関でありながらここに集まっていたのは,戦前の日本では「国賊」といわれていた自由主義者や,右翼信奉者,そして元「共産党員」という人たちだったのです.勿論「一億火の玉」になっていた当時の社会ですから,表立って思想教育されたわけではありません.そうした人たちが巷間言われるような鬼でも蛇でもなく,私が初めて世の中で出会った人間らしい人たちだったからです.
 敗戦後ここにいた人たちは政府の強権で閉鎖されていた職場に戻りました.そしてその人たちから仕事をもらって,私は戦後の厳しい荒波を乗り越えることができました.これが出版の世界に入ったきっかけです.とはいえ私は編集経験があるわけでなく,作家でもありません.今こそデザイナーは脚光を浴びるようになりましたが,当時そんな名前は洋服を作る人の占有だったのです.レイアウトも「割り付け」と翻訳しないと通じませんでした.編集者からも印刷やさんからも「よその人」と思われていたのです.私の立場は出版界の「蝙蝠」でした.
 私はもののはずみで印刷工芸を専攻する学校に入りそこを卒業していましたから,文科出の編集者と技術を誇りにする印刷職人が互いに背を向けて本を作っているのが不思議でした.良い本とは内容さえよければいいというものではないし,形だけ派手で立派であればいいというものでもないはずです.近代の資本主義社会の産業構造の上で別々の企業体に別れてしまったこの両者を,書物という最終作品に仕上げる上で結びつけなければいけないのではないか,と長い間「蝙蝠」の立場で考えて来たのでした.
 幸い日本の出版界もその後デザインの必要性を考える機運が出始め,私も雑誌『太陽』を手伝うようになり,やがて日本エディタースクールの最初のデザイン関係の講師を勤めることになりました.ここでエディトリアルデザインを教える若い講師諸君を糾合して始めたのが,「E+D+P研究会」でした.Eは編集者,Dデザイナー,Pは印刷技術者です.バラバラになりがちなEとDを結ぶ役目をDが受け持とうということなのです.本の制作過程でE→D→Pの流れがやっと定着するようになったのも,幸いしていました.
 もともと洋の東西を問わず出版と印刷は一体だったはずです.私が戦後に東方社時代の先輩からたのまれて『中央公論』の仕事を手伝った50年前でも編集者は印刷所の植字工と一緒に校正室で酒を酌み交わしながら仕事をしていました.あの頃はまだ両者の気持ちに一体感があったような気がします.それぞれの企業体の「業務管理」などの都合でこういうことが出来なくなったのだとすれば,それに代わるものがあってもよいのではないか,ということで20年前に『E+D+P』を発足させたわけです.
 その後出版業界は世の景気変動にあまり左右されずに伸びてきました.(ただしこれは週刊誌と漫画雑誌の数字に支えられていただけのことだったらしいのですが)数字に躍らされるのは出版の世界ばかりではないでしょうが,ここでも質のことはあまり考えられなかったようです.このコーマイなる「E+D+P」精神は一部の方には理解してもらえましたが,数字に振り回されている業界の方々には無視される結果になりました.『E+D+P』の刊行では実に多くの方からの無償のボランティアをいただいて続けてこられたのですが,これ以上迷惑はかけられないということで,残念ながら50号をもって終刊にした次第です.
 ところが今回思い掛けなくも日本出版学会から賞をいただくことになり,こんなマイナーな運動が権威ある会に認められたことは,まことに光栄であります.正直に申して冒頭述べましたように私は本作りが好きというだけで出版界の片すみで生きてきただけで,学会というようなアカデミックな世界とは無縁な人間と思ってきました.しかし今回このよう賞をいただいて日本の出版界も捨てたものではないという希望が出てきました.別に儲けなくてもいいとは思いませんが,世の中には金は二の次という仕事もあっていいんじゃないかと,自信を持ち始めています.ありがとうございました.
(蛇足ながら現在後続誌『紙魚の手帳』を発行し始めています.)

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