第18回 国際出版研究フォーラム発表「戦前期の上海における邦字学術雑誌の展開と受容」張賽帥(2018年11月)

戦前期の上海における邦字学術雑誌の展開と受容
――東亜同文書院の『支那研究』を中心に

 張 賽帥
 (東京経済大学大学院生)

 
 本報告では、戦前期の上海における邦字学術雑誌『支那研究』に着目して分析したものを紹介した。『支那研究』は、1901年上海において開設された日本の教育機関東亜同文書院の支那研究部により刊行された邦字雑誌である。
 戦前の中国において、1919年から1937年までの約20年間は出版業界の黄金時代と言われた。上海は中国における邦字メディア発行の中心的な拠点でもあり、多くの日本語新聞、雑誌、書籍が創刊され、発行されていた。本報告では、1920年から1935年にかけて出版された『支那研究』を研究対象として、販売開始の時点からその前後各8年間の経営面と誌面構成を検証した。
 
1.経営面
 中国に関する各分野の問題を研究した結果の公表を目的として、1920年8月に創刊された。発刊当初は非売品とされたが、第18号から販売されるようになり、同年の発行部数は500部であった。その後、一時的に非売品とされた時期もあった。本研究では、1920年から1927年までの全く販売されていない「非売品期」と、1928年から1935年までの「試売品期」に分けて、その違いや変化を検討した。発行形態を見ると、毎年3、6、12月に3回の発行と記載されているが、当時の時代背景や経営状況などの影響下にあり、本誌は定期刊行物として必ずしも年3回の発行ではなかった。
 販売価格については、頁数によって変動がある。定価50銭が一番多く、1圓とされることもあった。商品化し始めた第18号の3圓は高額であったが、当号は学界の好評を博し、第3版まで増刷されている。この状況から、試売開始当初の予想より多くの読者が本誌を買い求めていたことがうかがえる。
 また、販売所に関しては、上海の内山書店をはじめ、東京の斯文書院、厳松堂書店や大阪の株式会社大同書院も販売をするようになった。このことから本誌は上海と東京、大阪で同時販売された定期刊行物であったと考えられる。つまり、そのことは本誌が、中国研究の専門誌として、学界の研究者だけではなく、当時の上海や東京、大阪などの知識人にも少なからず影響を与えていた可能性を示唆するものである。
 
2.誌面構成
①掲載本数
 本報告で分析する掲載本数は、発行した雑誌の中に掲載されている論説、研究、雑録などの総本数を単位とした。1920年から1935年までの16年間にわたって発行された総掲載本数は252本であった。年度ごとの掲載本数は増加する傾向にあり、積極的に研究成果を掲載して発行していることがわかった。
 また前述した「非売品期」と「試売品期」の区間を分けて比較分析した。「試売品期」の年間平均発行回数は「非売品期」より増加し、積極的に発行されていることがわかった。そして、毎号の平均掲載本数も、「非売品期」より大幅に増え、掲載内容は数量の面からも豊富になっていった傾向がみられる。

②掲載内容
 本誌で掲載されていた内容を詳しく見ると、中国の経済・社会・政治・外交に関連するものが最も多く登場している。それに続くのが、哲学、歴史、教育、語学である。誌面構成の内容については、その目次に掲載されている見出しをまず検証した。それらは「論説」、「研究」、「調査」、「資料・紹介」、「翻訳」、「雑録」から構成されていた。掲載本数が一番多かったのは「研究」であり、全体の約半分を占めており、「研究」は本誌の中心になっていることがわかった。
 本誌の中心である「研究」のジャンルに区分された記事の内容について見てみると、多岐にわたっている。特に、歴史的な視点に立った古代中国から近代中国にかけてのトピックを扱った研究成果も数多く掲載されている。当時の中国問題だけではなく、中国の長い歴史にわたって、過去との連続性のなかで考察を行うことにより、中国について深く理解し研究することを意図したものであった。また、学問の研究だけではなく、商品開発など経済社会に直結する研究成果もここで取り上げられた。
 
3.まとめ
 以上のように、邦字雑誌『支那研究』の1920年から1935年までを中心に考察を行い、この雑誌を商品化することによる当時の上海や東京など知識人や経済人に与えていた影響の可能性を見てきた。また、本誌は当時の中国問題を深く理解するためのオリジナルな雑誌であることも確認した。中国に関する学術的研究の欠乏、また正確な研究が切迫している時代にあって、中国の広い分野における研究について多数掲載している本誌は中国研究の先駆的な学術雑誌だと考えることができる。