「清末の雑誌出版における『農学報』が果たした役割」南岳(2019年11月30日、秋季研究発表会)

清末の雑誌出版における『農学報』が果たした役割
――羅振玉(らしんぎょく)の論説を中心に

 南 岳
 (北海道大学国際広報メディア・観光学院博士後期課程)

 
 本発表では、中国近代最初の専門雑誌『農学報』の創刊の背景、編集方針、読者層及び発行範囲を考察した上で、欧米、日本の翻訳記事の掲載量の変遷を明らかにし、翻訳記事を内容によって分類し、同誌の掲載の傾向を検討する。また、羅振玉の論説を分析することで、羅が『農学報』を通じて何を伝えたいのかを明らかにする。それにより、『農学報』がどのような特徴を持っていたのか、清末における雑誌出版において同誌が果たした役割を明らかにする。
日清戦争後、敗戦した中国人は日本に強く刺激を受け、中国人の日本観に根本的な変化が生じた。日本の書籍と雑誌も多く翻訳出版されるようになり、中国訳日本書の第一次ブームが起こった。その中、1897年に羅振玉は中国最初の農学専門雑誌『農学報』を創刊した。『農学報』は第1号から第18号までは半月刊で、第19号より第315号まで毎旬刊行に変更された。外国農報・農書の翻訳を主な内容としている農学専門誌である。農学啓蒙を主たる目的とし、農学の「ほかは取り上げない」、また「論説を載せない」、政治に関与しない方針をとった。上海務農会の会報として創刊され、務農会の会員は官僚や知識人がほとんどであったことから、『農学報』が一般大衆を対象としたものではなく、知識人と官僚に向けて発行されたものと考えられる。『農学報』の定価は同時期の『知新報』、『時務報』とほぼ同じで、発行部数は3000部ほどであった。上海以外に、全国16地域に66ヶ所で代理販売店が設けられていた。
 発刊当初は欧米から翻訳した記事が多く、その後徐々に減り、第94号以後はほぼなくなった。逆に、当初は日本から翻訳した記事は欧米のものより少なかったが、第94号前後から大幅に欧米の記事を上回った。日本から翻訳した記事は翻訳記事総件数(925件)の8割を占めた。そこから、『農学報』が日本から多大な影響を受けたことがわかる。また、『農学報』の創刊号で定めている項目に沿って翻訳記事を分類すると、件数が最も多い項目は「漁業」(97件)で、次は「育蚕」(79件)と「茶」(69件)となった。『農学報』には輸出できる、付加価値の高い産業を強化しようとする意図が見える。
 羅振玉が書いた31本の論説が『農学報』には断続的に載せられている(1900年1月~1901年9月)。これらの論説は様々な農業の分野に触れられているように見えるが、そこには農業の「利」を論じるものが中心となっていることが読み取れる。例えば、第134号では、文章の8割で「蚕利」を語っている。「茶糸」は輸出品の大宗だと強調し、蚕糸業は「増長国益」において、非常に重要な産業だと語る。このような農業の「利」を強調し、「勧業」する内容は17本ある。羅の「農為邦本」思想は、実は水産、蚕糸をはじめとする農業の「利」を追求することで、「富国」を実現しようとするものである。
 また、31本の論説で最も量が多いのが「日本農政維新記」という論説である。羅はそれを 4つにわけて(第129号~第132号)明治維新の農政維新の内容に関する論説を載せている。羅の日本への関心の高さが分かる。日本の農政革新の施策が簡潔に記録される中、第130号では、2頁を使って、明治10年の内国勧業博覧会を取り上げている。それに、博覧会の内容より、開場典礼に天皇の臨幸及び発言引用が多くの誌面を占めている。天皇は「農は邦のもとである。物産は農業により繁殖され、民は殖産により富になる。したがって、農学を提唱しないといけない」と農学の必要性を語る勅語が引用される。「我が国産業が日に日に繁栄し、国民が日に日に豊かになることを望む」という天皇の期待が羅の期待でもあると推測される。これらの論説(合計8本)は羅の日本視察(1901年12月と1909年6月)の前に書かれたものだ。訪日の前から羅はすでに日本への関心が高く、明治維新の「殖産興業」に感化され、日本をモデルに中国の農業を振興しようとしていた。
 『農学報』は9年近く存続し、発行範囲は中国の大半を占めていたことから、同誌の影響は大きかったと考える。当時変法維新運動が盛んになり、政治、法律分野では多くの雑誌が創刊されたが、自然科学などの分野での出版は少なかった。ゆえに、農学分野の専門誌の創刊は非常に重要な意義を持っていた。『農学報』が創刊された後に、『教育世界』など各分野の専門誌が続々と創刊された。『農学報』がのちの専門誌の創刊・発展につながっていったといえる。つまり、『農学報』は中国近代において先駆的な専門誌であった。
 羅振玉の論説を考察することによって、今までの先行研究では捉えられなかった羅の農学に対する考えを捉えることができた。羅は農業の「利」を重視し、日本を模範にして「茶糸」などの殖産を振興することで、「富国」を実現しようとしたと言えるだろう。そして、羅は論説の中で、日本のことに触れることが多かった。中国最初の専門誌としての『農学報』には、日本の影響が看過できないと考える。清末出版界はどのように中国の近代化に貢献したのか、『農学報』からもその一端を窺うことができるだろう。