「幕末に刊行された洋学関係官板、及び「準官板」の出版史上における意義」佐々木千恵(2021年12月4日、秋季研究発表会)

幕末に刊行された洋学関係官板、及び「準官板」の出版史上における意義
――近代出版への架け橋として

 佐々木千恵
 (早稲田大学大学院文学研究科、
  日本学術振興会特別研究員DC2)

 
 江戸時代には多くの官板が制作されたが、普及目的で出版されたものはごく一部だった。一方幕末に作成された洋学関係の官板は、医学書、兵学書、語学書など実用目的で即刻刊行された。幕末になると民間書肆から刊行される洋学関係の出版物も増加したが、洋学系官板はそれらとどう異なり、どのような出版意義があったのか。また洋学や海外情報の統制・独占を図ってきた幕府が、なぜ洋学系官板を出版し始めたのか。本研究では以上の問題点を、当時の時代背景と照らし合わせて考察した。
 先行研究で官板を包括的に検討しているのは管見の限り福井保氏の研究のみで、幕末の洋学系官板の出版史上の意義などについて更なる検討が必要だと考えた。そこでまず『幕末御触書集成』等から幕府の洋学政策の流れを把握し、『開成所事務』など洋学所の一次史料から、洋学所で出版体制が確立してゆく様子を追った。そして実際の官板の調査から、官板と官板に準じる書物について、その性質を考察した。
 
1.洋学系官板の誕生背景
 洋学の有用性を認識した松平定信は、早くも寛政期に洋学統制の意図を表した。後に勝海舟は「海防意見書」(1853)の中で杜撰な翻訳書が流布する現状を憂い、有益な書物は研鑽を積んだ洋学者に翻訳させ官板として刊行すべきだ、と定信の意向を踏襲する見解を示した。洋書に関する触書等を通事的に見ると、開国後も洋学所が検閲により統制を継続していることが分かった。
 福井氏によると官板の定義は、①幕命の存在、②大名・幕臣やこれに準じる人が編集、③経費は幕府が支給、の三点である。洋学系官板は天文方や陸軍所等が刊行した書物も含むが、本研究では官板出版の中心であり、検閲担当でもあった洋学所に焦点を当てた。
 
2.活版印刷の導入と洋学系官板の増加
 洋学所での活版技術導入や人材採用の経緯を、主に一次史料を参考にまとめた。洋学導入の手段である語学関係書物作成のために活版印刷技術が求められ、科学技術に通じた人材が採用された。活版印刷の体制は、各国との条約が締結された1858年頃に整った。外国製の機械を導入し専門家の指導を仰げたのは、幕府機関の特権と言える。洋学所は検閲を続行しつつ、洋学系官板出版を次第に活発化させていた。そこに、無秩序な洋学知見や海外情報の流布を抑制しつつ知識導入を主導する、という意図が見てとれ、官板新聞発刊もその一例と言える。不特定多数への迅速な情報伝播、不都合な情報・学識の拡散阻止のためには、いわば内部検閲を経た書物や新聞を刊行するほうが得策だったのである。
 
3.官板と私版――準官板誕生の背景
 本来官板は幕命の元、幕府負担で制作されるが、洋学所による語学書出版の経緯を辿ると、教授陣が自己判断で作成したと推察される教材等が存在していた。教授陣が編集した洋学所の教材、といった官板に準じる「準官板」の刊行について考察するため、語学系官板を調査した。語学書は順次刊行されたが、重版や増補版刊行がその需要の大きさを示していた。例えば英仏『単語篇』の注解書が教授陣の編集で私版として刊行されるなど、準官板と言える書物が散見された。語学学習者の需要を熟知する教授陣は、幕府の編集命令がなくとも、必要な書物の出版を敢行したのである。明治初期にはこれら語学系官板の注釈書が私版で続々と出版されたことから、官板・準官板が雛形となり近代へと継承されたと言える。
 幕末になると幕府の財政は逼迫していたが、官費が無くても準官板を刊行できたのは売上げが見込めたからであろうし、諸藩の藩校で利用されたことも分かった。官板も準官板も、出版物の近代化に向けた牽引力となったのは間違いない。
 
4.おわりに
 幕末の洋学系官板は、①一般販売され全国レベルで拡散、②小部であり短期間で編集・刊行、③実用書、④活版印刷設備の活用、といった点でそれ以前の官板とは性質を異にし、近代的出版物の一つの見本となった。「準官板」と言える官板・私版の境界線上にある書物の登場を指摘したが、①幕府の財政困窮、②売上げの見込み、③教授陣による需要の把握、といった要因が挙げられる。加えて語学書以外の準官板の存在も指摘した。洋学所には活版印刷設備があり、卓抜した教授陣が編集したからこそ、私版との差別化が図れたと言える。明治期に書物は西洋化するが、洋学系官板はその変化の先駆けとなった。幕府は開国以前には洋学統制を行い検閲を実施したが、洋学導入の必要性を感じ、自己検閲済みの官板を出版するようになったのである。だがそれらは洋学所教授陣の裁量で実施されており、準官板が増加した現実も、幕府が絶対的な存在でなくなったことを象徴していると言える。将軍へ献上され秘蔵される大部の書が多かった近世的官板は、幕府衰退に伴い、私版に近い洋学系官板へと変化したのである。
 質疑応答では、内部検閲の現状について問われたが、明確な状況把握のため更に調査を進めたい。