英語圏における出版文化史研究の動向――日本への関心の薄さを問題にして  亀井ダイチ・アンドリュー (2009年5月 春季研究発表会)

■ 英語圏における出版文化史研究の動向
  ――日本への関心の薄さを問題にして (2009年5月 春季研究発表会)

 亀井ダイチ・アンドリュー

 近年,英語圏の歴史学研究の分野では,出版文化史――本・出版社・書店,そしてそれらを取り巻く環境の中で発展してきた文化をめぐる歴史―がブームといっていいほどの隆盛をみせている。そうした研究動向においてどういった理論や方法論が使われているのか,また日本に対する研究関心の程度とその理由について考察する。
 上記のような出版文化史ブームを生みだした背景として,1950年代からヨーロッパにおいて発展してきた「新書誌学」という研究分野と,フランスで生まれた「本の歴史」という問題意識がある。こうした分野の歴史観を基に,出版と社会,また出版と知識人文化との関連をめぐる認識が徐々に深められてきた。この過程で重要な役割を果たした一人がロバート・ダーントンであるが,英語圏の研究者の多くは,今でも文化と出版の関係を重視した,このダーントンの研究の影響を強く受けている。
 ここ10年間の英語圏における出版文化史研究には,大きく分けて二つの傾向が見られる。一つは,国や時代を限定せず,読むという現象や印刷技術などの一般的テーマに基づくもの。もう一つは,ある特定の国の出版文化に基づくものである。後者の研究アプローチは元々ヨーロッパの歴史研究から生み出されたものでもあり,対象としているのは主にヨーロッパの国々である。しかし,欧米以外の国に関心を持つ研究者も増えてきている。その顕著な例が中国である。ヨーロッパに関する出版文化史研究の影響を受けた中国出版文化史に関する研究書も,最近では急増している。時代的には明・清時代から近代に関する研究書が特に多いが,前近代に関するものもある。
 また,近代中国における印刷・書店・書物とその文化的背景に関する研究書が増加する一方,出版文化史の分野に限らず,現代中国の出版業についての研究書も増えてきている。
 しかし,残念なことにその関心は日本にはあまり向けられていない。日本に関する英文での研究書の多くは文学関係のものであり,出版文化史に関する研究書は殆どない状態であった。1980年代になってようやく出版に関する研究が行われるようにはなったものの,そこでの主な関心はジャーナリズムと新聞であった。そうした研究ではメディアの中で新聞を中心とし,近代メディアと国家権力の関係を論じるのに焦点が当てられていた。ここ10年ほどの研究動向をみると,研究方法はより理論的になり,また国家権力以外の問題も取り上げられてきているが,新聞が主な研究対象であるという状況はそのままである。日本における「本」の歴史を取り扱っている学術研究書は二つあるが,その両方とも江戸時代を中心としており,近代日本出版文化史に関する学術書は,表面的に近代の雑誌を扱ったものを除き,殆どないのが現状である。
 つまり,近代日本の出版文化史研究では新聞に比重がかけられており,書籍一般や出版に関するものは殆どない(江戸時代を除く)わけだが,これは何故だろうか。
 同じ東アジア圏に位置しながら,中国とは異なり,日本に関してはかなり偏った数少ない研究しかなされていない理由を,世界経済における現在の中国の力だけで説明することは出来ない。その答えは,むしろ英語圏の研究者の歴史観にあると思われる。
 本や印刷などの出版文化は,中国を対象としている英語圏の研究者にとって最初から研究課題のひとつであったが,日本を対象とする研究者にとってはまだ新しい分野である。この差異は欧米研究者が持っている中国と日本の「エリート」に対するイメージに基づく。19世紀末より,中国では「エリート」と言えばそれは学者を意味し,古典文学や教育を重視する国と理解されている。その一方で,日本では「エリート」といえば武士を指し,日本は武士道や禅仏教などを中心とする国だという見方が,欧米社会には根強く息づいているからである。こうしたイメージを欧米人に植え付ける上で中国人・日本人自身が果たした役割も無視できないが,こうした歴史観の相違が,日本の文化における書籍の役割といったものを軽視する状況を生み出したのでは,と
私は考えている。
 しかし,日本近代社会の形成の中で出版社が果たしてきた役割の重要さ,出版社と知識人らとの関係の特異さを考えるならば,こうした研究状況はそのままにしていいものではない。英語圏における出版文化史研究の発展のためにも,その一部として日本の出版文化をも理解していく必要があると思う。英語圏で主流の研究方法を学び,日本での研究に活かしていくのも重要であるし,同様に,英語圏の研究者も,日本語の文献やその方法から学んでいくことも大切であろう。お互いの利点を活かしあい,協力し合ってこそ,日本の出版文化史の研究の発展における実りある貢献ができるものと考えている。

(初出誌:『出版学会会報125号』2009年10月)