『実業之日本《支那問題号》』と商務印書館  稲岡 勝 (2010年4月 春季研究発表会)

■『実業之日本《支那問題号》』と商務印書館
 (2010年4月 春季研究発表会)

 稲岡 勝

(1)前史
 近代の日中出版交流史は未開拓分野の一つである。研究蓄積が薄い大きな要因には,日清戦争以後の日中関係が微妙に陰を落としていることは確かであろう。そういう中で金港堂と商務印書館の合弁問題は日中双方から解明が進んでいる。短時日の間に商務印書館が東洋一の大出版社に発展し得たのは,(1)大変動時代の偉大な文人・張元済の参画,(2)金港堂との合弁(資本提携),によるところが大きかった―この点は近年の共通理解となっているようだ。
 商務印書館は1897年,上海美華書館の清国人印刷工など4人が共同出資して設立した小さな印刷所に始まる。当初は英文印刷物を中心とする腕の良い印刷所にすぎなかった。1902年清朝の役人の座を追われた張元済が上海に来て,商務の経営に参画。彼は学者・文人であり編訳所を設け,優秀な人材を招くなどの改革を実施,小さな印刷所から大出版社へと飛躍する土台を築いた。これより先金港堂は小学教科書出版からの撤退を含みに経営方針の変更を模索していた。その一つが清国という新しい市場に活路を見出すことであった。
 1903年10月金港堂の原亮三郎は幹部を連れて渡清,日中双方十万元ずつ出資して有限公司商務印書館が正式に発足した。この提携を仲介したのは,当時三井物産上海支店で辣腕をふるっていた山本条太郎である。のちに政財界の大物となり,満鉄総裁や政友会幹事長になる。彼の妻は金港堂主原亮三郎の三女,岳父のために一肌脱いだのであろう。
 合弁の効果は大きかった。資本が充実して経営が安定する。金港堂から出版編集のノウハウや,近代的な印刷製本技術を学び,商務印書館は目覚ましい発展を遂げる。とくに教育制度の大改革に対応した新定教科書の出版は大当たりして,そのシェアは6割を超えたという。このようにして商務印書館は瞬く間に東洋一の出版社に成長するのである。
(2)報告要旨
 この報告は第一次世界大戦後,五・四運動など排日熱が澎湃として起こる民国政情に触発されて組まれた実業雑誌の特集「支那問題号」(『実業之日本』22巻13号,1919年6月30日)と,それが民国時代の商務印書館に投じた思わぬ波紋を取り上げる。
 『実業之日本』特集号の記事中に,中華道人「日支合弁事業と其経営者」がある。この記事は合弁事業の沿革・現況および将来について触れ,その事例20件を取り上げ論評したものである。10番目に商務印書館の紹介があるが,かなり問題の多い内容であった。記事の前段には金港堂との合弁に至る経緯があるが,これは東亜同文書院編『支那経済全書』からの孫引きである。最も奇妙なのは1914年1月の合弁解消から5年も経っているのに,それへの言及が全くないことである。恐らくその事実を知らずに執筆したと思しく,後段では次のように述べている。
 「今や支那人側に於いても,営業成績漸次良好なる為め,日本人側に依頼する傾向を生じ,両者間益々円満に進み,業務は愈々拡張の機運に向かった。然れども未だ該書館が表面支那会社なるも実権は日本人に帰属するものなりとの思想は掃蕩する能はざるものの如くある。(以下,省略)」(p.163,総ルビは省略)
 中華道人の記事は商務印書館を主宰する張元済をいたく刺激した。彼は直ちに理事会に諮り,事実無根の内容につき記事訂正の要求書を実業之日本社に送付した。この素早い反応の裏には,じつは商務印書館に切迫したお家の事情があった。いったいそれは何なのか?
 張元済が最も心配したことは,記事内容の誤り自体よりはライバル中華書局が,誤報記事を奇貨として商務印書館の悪宣伝を行うことにあった。事実中華書局は中華道人の記事を印刷ビラにしてバラ撒くだけでなく,特集号自体を全訳して『日本人之支那問題』として出版,商務中傷の格好の材料としていた。中華書局は1912年1月,商務印書館にいた陸費達が独立して“完全中国資本の出版事業”を旗印に創業,当面の課題は最大の実績を持つ商務印書館の牙城を崩すことにあった。その際最も有効な戦術が金港堂との合弁関係を暴露し,民衆の素朴な排外意識に訴えかけることであった。日貨排斥など排日熱が澎湃と起こるのに乗じて,中華書局は長く執拗に商務印書館を攻撃し続けていたのである。
 一方,実業之日本社はどう対応したのか。張元済の要求に従い,合弁と紹介した記事は「目下は全然支那人経営の事業なる由に付き訂正」及び,合弁解約書原本(1914年1月6日)の写真版を付載した「商務印書館股分有限公司声明」広告を『実業之日本』22巻16号に掲載した。また,この記事訂正と増田義一の陳謝書簡とは,上海の日刊紙『申報』広告欄で商務印書館により合弁解消の証拠として利用されもした。
 この事件は既存文献(実業之日本社の社史,増田義一の伝記,馬静の雑誌研究書など)には全く言及はなく,清末小説研究の樽本照雄論文が唯一の業績である。