第19回 国際出版研究フォーラム発表「コンテンツとしてのジャーナリズム」塚本晴二朗(2020年11月6日)

《第1主題:モバイル・コンテンツの生産》
 コンテンツとしてのジャーナリズム
 ――技術革新と生産者の倫理学

 塚本晴二朗
 (日本大学)

 
 20世紀末頃に始まったメディアの技術的発展は、デジタル・メディアの登場と、比較的低費用で制作可能な、多くの情報発信の新形態の出現だった。このメディアの技術革新は、ジャーナリズムをグローバルで双方向性の事業へと変えた。今や専門職としてのジャーナリストばかりでなく、非常に多くの人々がジャーナリズムに関わっている。モバイル・コンテンツとなったジャーナリズムは、誰もが生産者なれる。一種の「コミュニケーションの趣味」となった。ある人は自分の寝室から自身の経験や見解についてブログに書き込み、フェイスブックに政治的私見を掲示するかもしれない。ある人は一国の国家元首よりも多くの「フォロワー」を持つかもしれない。人間は社会的でコミュニケートする生き物だから、人間のメディア環境に対する主な変化は、単に情報を広めるための電子装置が変化したことに止まらない。人間がどのように考え、感じ、対話し、共生するかを形作る。
 二つの理由から、コンテンツとしてのジャーナリズムの生産者の倫理学の見直しが必要となっている。第1に専門職が担うべきジャーナリズムという活動に、誰もが容易に参加できるようになったこと。第2に情報の流れが、国境を無意味なものにしたため、偏狭な自民族中心主義的な意見が、グローバルに流れるようになっていること。本発表はこの二点を中心に、日本におけるメディアの技術革新とジャーナリズム倫理学の関係をみていく。
 GHQの占領政策における、日本のジャーナリズムに関する基本方針は、三つの柱からなっていた。第1はジャーナリストの職能団体を作ること。第2はその団体を母体として倫理綱領を作ること。第3にジャーナリスト養成機関として、大学のジャーナリスト養成教育を充実させることである。戦後日本のジャーナリズムは、GHQの占領政策に沿った形となり、形式上社会的実践となった。それととともに、ジャーナリズムがデモクラシーを支える制度的実践であり、第4権力のような位置にある、との認識と繋がってくるの。現在の日本でも、このような考え方に憲法的な裏付けがある、という解釈が一般的である。
 メディアの技術革新とジャーナリストの倫理学の関係をみていくために、もう一つ認識しておく必要があるのが、「新世界情報・コミュニケーション秩序」に関する議論である。
 1948(昭和23)年の国連総会で採択された世界人権宣言の19条には、世界中の誰もが自由で平等に情報をやり取りできると規定されている。しかし、実際の国際的な情報の収集伝達は、欧米先進国の大手国際通信社の寡占状態だったが、1970年代に入り発展途上国を中心に提唱され出すのが、新世界情報・コミュニケーション秩序という考え方である。先進国と発展途上国との経済的、政治的、文化的格差を是正するためには、先進国の目からみた情報だけではなく発展途上国の視点も必要である。この考え方は、真実はグローバルな視点から捉えられるべきもの、というジャーナリズム観と繋がっているといっていい。
 かつて日本においてジャーナリズムとは、専門職としてのジャーナリストが行う活動だった。国際的な情報の流れは、巨大な国際通信社によって寡占化されており、日本は必ずしも国際世論をリードすることはできなかった。しかし今やSNSを通じて誰もが極めて多くの受け手に、自らのメッセージを発信することができる。ジャーナリズムという活動をする者は、専門職である必要はなく、その情報も世界中に届き、国際通信社に妨げられることはない。それではジャーナリズムとは誰もが好き勝手に行っていい活動なのだろうか。あるいは、時代が変わってしまったのだから社会の全成員が従うように法規制で縛るべきなのだろうか。どちらの立場を取っても、ジャーナリズム倫理学は必要ない。自由を最優先して、混沌とした状態に陥るか、秩序のために自由を失うかの違いがあるだけだ。
 しかし、ジャーナリズムを制度的実践に位置づけるのならば、そして世界の情報の流れは、世界人権宣言の19条の理念に則るべきならば、ジャーナリズム倫理学は、必要なはずである。ただ、学ぶべき対象が圧倒的に増えるだけである。つまり、専門職教育と考えられていたジャーナリスト養成教育は、全ての情報発信者を対象としたジャーナリズム教育へと変えていく必要が生じてきたのである。同様に、ジャーナリズムのための専門職教育として、高等教育機関で行われてきたジャーナリズム倫理学の教育は、デモクラシーのための主権者教育の一環として、中等あるいは初等教育機関で行われるべきものに変わってきた、と考えるべきではないだろうか。ジャーナリズムが制度的実践である日本の場合は、現行の技術革新は、ジャーナリズムというコンテンツの生産者たるジャーナリストの倫理学を、根本的に見直さなければならない事態を引き起こしているのである。